第4回思い出のあの海で進む基地移設 「知らんぷり」していたのは誰なのか

有料会員記事沖縄・本土復帰50年

安田桂子
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 子どものころ、夏休みに家族で1泊するホテルがあった。那覇から沖縄自動車道にのって、北へ1時間あまり。「ジュゴンがいるらしいよ」と父が教えてくれた青緑の海を背景に、みんなで写真を撮った。

 そこが基地移設先だとはっきり認識したのは、何度目かの取材へ向かう車窓の景色に、夏の思い出が突然よみがえったときだった。

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沖縄が本土に復帰して、今年5月15日で50年を迎えました。復帰10年後に那覇市で生まれ育った記者が、地元にかえり、身近な人たちに話を聞きながら、本土復帰とはなんだったかを考えます。

 5月16日、名護市辺野古へ久しぶりにレンタカーを走らせながら、そんな記憶をたどった。

 沖縄の基地負担は重すぎる。いつまで苦しみを強いるのか。県民が怒りの声を上げたことをきっかけに日米が合意したのが、宜野湾市の住宅街にある普天間飛行場の返還だった。

 しかし、返すためには普天間から40キロほどの辺野古沖に基地を移すしかない、と政府は繰り返している。それが、「世界一危険」とされる普天間飛行場の危険性を除去し、日米同盟の抑止力を維持する「唯一の解決策」らしい。

 沖縄戦で奪われた先祖の土地を返してもらうのに、なぜ新たな土地を差し出さないといけないのか。代替案はあるのか、日本の安全保障を考えているのかと沖縄に迫るのは「日本の政治の堕落だ」と、翁長雄志・元知事は切り捨てた。翁長さんが亡くなって、もうすぐ4年になる。

 降りしきる雨の向こうに、フェンスが見えた。工事車両が資材を運び込む辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前では、移設に抗議する人たちが座り込みを続けている。前日、取材を途中でやめてしまったわたしは、今度こそじっくり話を聞こうと心に決めて向かった。

 ゲート前には200人ほどがいた。

 意気込みに満ちた足取りはしかし、ためらいとともにある場所で止まってしまった。

 掲げられたのぼりやプラカー…

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