第5回さだちゃんを捜して始まった戦後 本土復帰で取り返したかったものは

有料記事沖縄・本土復帰50年

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 翁長安子さん(92)は、幼なじみの「さだちゃん」のお母さんが訪ねてきた日のことを覚えている。

 沖縄戦が終わって7、8カ月。激戦地だった摩文仁村米須(まぶにそんこめす)(いまの糸満市米須)で、テント小屋の暮らしを始めたばかりだった。

 「やすちゃん、貞子を捜しに行こうって、おっしゃったわけ」。翁長さんは、宙の一点を見つめたまま振り返る。

 小さなショベルを持ってさ。どうするかねえとしていたら、わたしの母親が「一緒に捜しておいで」って。大きな声で、さだちゃーん、さだちゃーん、迎えにきたよーって必ず声かけなさいよ。そうしたら伝わるかもしらんからって。そんなふうにして歩いて、あっちを掘ってみる。こっちを掘ってみる……。

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沖縄が本土に復帰して、今年5月15日で50年を迎えました。復帰10年後に那覇市で生まれ育った記者が、地元にかえり、身近な人たちに話を聞きながら、本土復帰とはなんだったかを考えます。

 金城貞子さんは、沖縄県立第一高等女学校(一高女)3年生だった。のちに「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる看護要員として、日本軍に動員された。戦後、生き残った学生たちが収容所から戻るころになっても、貞子さんは現れなかった。

 ひと学年下の一高女2年生だった翁長さんは、当時15歳。沖縄特設警備隊に志願し、看護や炊事を担った。背中に弾を浴び、砲弾のなかをはって南部へ。6月22日、中隊長に「生きなさい」と投降を促され、壕(ごう)から米兵の前へ進み出た。

 県民の4人に1人が犠牲になったとされる沖縄戦。戦後半年あまりが過ぎても、遺体は至るところに残されていた。

 草をわけ、土をさらっては…

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