基地のフェンスよ浮き上がれ 現代芸術で伝える沖縄 照屋勇賢さん
琉球時代から伝わる染め物である紅型などを使い、米軍基地をモチーフにした作品などを手がける現代アーティストの照屋勇賢さん(49)は、いまの沖縄が抱える様々な問題を芸術を通じて国内外に発信しています。沖縄と本土、そしてアメリカとの間にある「分断」を乗り越え、それぞれの文化を認め合う社会を――。自由な発想で作り上げた作品に込めた思いを聞きました。
――沖縄復帰50年企画として那覇文化芸術劇場なはーと(那覇市)で特別展「CHORUS(コーラス)」を開催中です。どんな思いを込めましたか。
「CHORUSには『ともに』『一緒に』という意味があります。特別展に合わせて制作したオブジェ『コーラス』は、工場や倉庫で使われるパレット(荷台)を何枚も積み重ね、高さ約6メートルの山のような形にした作品です。沖縄で神をまつる神聖な場所『御嶽(うたき)』を表現しました」
――天井まで上った風船から伸びるひもにくくられたフェンスが浮かび上がる作品が印象的です。
「米軍基地のフェンスをイメージしています。フェンスが分断の象徴に思え、それを取っ払って解放された空間を作りたかった。分断されている人やモノが向き合えるチャンスがほしい、というのが僕の狙い。一つひとつは小さい風船でも、いくつも合わさったら、フェンスを浮き上がらせることができるという願いもあります」
――風船のついた鉄片も展示しています。
「鉄片は、沖縄戦で使われた砲弾の破片です。沖縄戦では約3カ月にわたって米軍から無差別に砲弾が撃ち込まれ、いまでも不発弾がある。77年前の話ではなく、いまも続く問題です。ウクライナでも同じように『鉄の暴風』が起きている。作品を見て、悲惨な戦争を起こしてはいけなということを改めて想像してほしい」
てるや・ゆうけん
1973年生まれ、沖縄県南風原町出身。多摩美術大学を卒業後、ニューヨークに留学。現在はベルリン在住。6月26日まで、那覇文化芸術劇場なはーと(那覇市)で沖縄復帰50年特別企画「照屋勇賢展 CHORUS」が開催中。入場無料。また、8月28日まで「ホテル アンテルーム那覇」(那覇市)で個展を開催している。
――生まれ育った沖縄本島南部の南風原(はえばる)町はどんな街ですか。
「もともと陸軍病院があり、首里から南部の激戦地に南下するルートにあります。山から追いかけてくる米軍の兵隊から逃げられるように壕(ごう)が作られ、いまは、当時の壕を再現する資料館となっています」
――戦争の跡地からどんなことを感じ取りましたか。
「いかに戦うことが悲惨な出来事なのか、沖縄にいると、そう感じることが多い。自宅には、祖父母が生まれてからの年表つきアルバムがあります。そこには、祖父母の妹の幼少期の楽しそうな写真も並んでいます。戦時中は貼れるものがなく、ページがグレーになっていますが、戦後はまた、写真が復活する。しかし、これまで出ていた子どもたちが出てこなくなる。7歳とか14歳のかわいい子どもが自決したり、戦争の被害にあったりして亡くなってしまった。すごくつらい思いを感じたので、小学校で憲法9条を教わったとき、『同じ過ちは繰り返されないのだ』と子どもながらに安心したのを覚えています」
――現代アーティストになったのはどうしてですか。
「小学生の時からクラスメートの中では絵は上手な方だと思っていました。最初は、地元の集落や草木の風景画を描いていて、自然保護に関心のある母親から『やりたいことをやりなさい』と言われ、芸術大に進みました」
――大学ではどんな作品を描いていましたか。
「やんばるの森を描きました。(米海兵隊の訓練場となっていて)基地の反対運動があった。芸術大の教授には『沖縄の問題を語っても何にもならない』『意味がない』と言われ、沖縄問題がタブー視されていると実感しました」
――それでも、沖縄をテーマにし続けているのはなぜですか。
「学内の美術館長は違う評価をしてくれました。『地元を描くことは重要なこと』と励まされ、とても勇気をもらいました。その館長には『何かの問題、怒り、ストレスを描くなら、ユーモアを入れる工夫をしなさい』と教えられた。『そういう工夫をしないと、問題の元になっている人やそれに賛同する人は、作品を見ずに背を向けるから』と。
そのことが、基地問題を紅型を通して伝えようと思えたきっかけです。パラシュートで落下する兵士やオスプレイなどをあしらった紅型を作り、東京のアメリカ大使公邸に1年間ほど飾られました。沖縄の現状を紅型を通じて伝えられたことは意義があったと思います」
――大学卒業後は、アメリカで活動を続けました。
「ニューヨークの学校に行きました。社会全体でアーティストを支える文化がありました。違いを受け入れる姿勢から、すごく刺激を受けました。ニューヨークには親戚がいて、行きやすい環境があった。曽祖父母はアメリカ国籍で、いまも親戚の一部はニューヨークやハワイにいます」
――親戚が外国にいることについてはどう思いますか。
「非常に心強い存在です。世界につながりやすい意味で、僕はラッキーでした。でも祖父母が他界し、親戚をつなぎ合わせる要がいなくなってしまった。残された3世、4世の世代が、沖縄や日本に残っている親戚とどう関係を築いていくのかが課題です。今は、スマホのアプリがあるのでコミュニケーションはしやすい。でも、向こうにも生活があるし、努力は常に必要です。彼らにとっても、自分のアイデンティティーを持つために沖縄は非常に重要です」
――照屋さんにとって、沖縄はどんなところですか。
「小さい時は、沖縄で育って…
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