6月23日に生まれて 沖縄へ帰る機内、胸にぐっときたアナウンス

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 2010年の第92回全国高校野球選手権大会で沖縄勢として初優勝し、史上6校目の春夏連覇を成し遂げた興南高(那覇市)の我喜屋優監督(72)。自身も1968年の第50回大会に同校の主将として出場し、ベスト4に入るなど、沖縄の高校野球とともに歩んできました。沖縄の日本復帰50年の節目に、沖縄の高校野球の歴史と監督としての原点、人づくり、そして母親から聞いた沖縄戦などについて語ってもらいました。

がきや・まさる

1950年6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれ。68年の第50回全国高校野球選手権に興南高の主将、4番中堅手で4強入り。2007年に興南高監督に就任。10年に理事長、11年からは興南中学・高校の校長を兼務している。

 ――日本に復帰して50年。半世紀前の沖縄の高校野球はどうでしたか。

 「1958年に沖縄勢で初めて首里高が選手権大会に出場し、63年に1勝した。だが出れば負けるで、なかなか勝てなかった」

 ――やはり差があった。

 「当時の沖縄で設備の整った球場は奥武山球場(現・沖縄セルラースタジアム那覇)だけだった。佐伯先生(日本高野連の故・佐伯達夫会長)が内地の高校を派遣してくれたが、同じ高校生とは思えない。背は高く、バットもグラブも違う。草野球みたいな自分たちとはっきり差はあった」

 ――68年興南の快進撃が分岐点に。

 「私は主将で中堅手だった。ベスト4まで進み、沖縄のみんなが『やったぞ』となって、『やればできるんじゃないか』と考えるきっかけになったと思う」

 ――当時は日本復帰前でした。

 「パスポートを持って、船で鹿児島まで行き、汽車で2泊した長い道のりだった。汽車もそうだが、初めての経験がたくさんあった。車が左側通行で沖縄の逆だったし、ドルを円に換えたら紙幣の色と大きさがバラバラで、おもちゃみたいだった」

 ――沖縄のことが知られていないと感じたそうですね。

 「マスコミから『英語で勉強していると思った』とか『マングースとハブはどっちが多いの』などと聞かれた。沖縄のことを知らないんだなあと」

 ――ベスト4が沖縄に与えた影響は大きかった。

 「県民も含め、『どうせ負けるけど頑張れよ』という判官びいき的な応援は肌で感じていた。ベスト8くらいで、『優勝旗が沖縄に行くんじゃないか』という高野連関係者の話が耳に入ってきた。相手方も『沖縄に負けるな』と必死になってきた。ようやく対等になれたと感じた」

 「ただ、無我夢中で戦っていたのに、『優勝したらどうしますか』などと周囲の雑音が聞こえて、その気になっちゃってね。優勝旗を受け取るまねなんかした。これで勝利の女神はサヨナラね。やはり決勝の壁は厚いな、高いなと。これを乗り越えないと沖縄に本当の夏は来ないなと思った」

 ――県内の他校には大きな刺激になった。

 「興南にできたじゃないかということで豊見城、糸満、沖縄水産などが力をつけてきた。栽弘義さんみたいに内地の野球を見て、沖縄に戻ってくる。沖縄尚学の比嘉公也監督もそうだし、自分もノンプロから戻ってきた」

 「沖縄を知り、内地を知り、その差を知って、それを埋める。そういうことが、この50年でできるようになった。教える側もやる側もレベルが上がってきた。沖縄だけの野球だったら、今でも力はないだろう」

 ――選抜では99年と2008年に沖縄尚学が優勝しましたが、選手権は10年の興南まで待たないといけませんでした。

 「興南はその年の選抜で優勝した。ただ、春に優勝し、満開状態で夏を迎えて勝てなかった高校はたくさんある。だから、朝の散歩やゴミ拾いなど、これまでやってきた人づくり、根っこの部分をもう一度見つめ直そうと(選手たちに)伝えた。気持ちを切り替えられたのが良かったと思う」

 ――そして春夏連覇を成し遂げました。

 「帰りの飛行機で沖縄が近づ…

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