空襲、燃え崩れ落ちた父の店 語り継ぐ戦争

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伊藤智章
【動画】揖斐に疎開した久瀬新一郎さん=伊藤智章撮影
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久世新一郎さん(95)=岐阜県大垣市

 1927(昭和2)年2月、下町の東京・日本橋の碁盤店で生まれた。おやじは吉原で遊んだ後、家で寝ていて、お袋に「何やってんの」と言われていた。地域の尋常小学校は立派な校舎で天皇が視察に来たほど。臨海学校や伊勢、奈良、京都までいく旅行もあり、新宿や四ツ谷から越境通学してくる人気だった。

 その分、下町の子はふるわない。僕も家庭教師をつけられ、やっと中学に入った。ぜんそく持ちで体も小さかった。中学はすぐ休学し、岐阜市の叔母の家で7カ月過ごした。叔父は建築家で、家にピアノやクラシックレコード、本が大量にあった。

 二・二六事件(36年)は小学校3年の時です。「流れ弾が危ない」と臨時休校になった。日中戦争(37年)が始まると、近所の人も次々に出征していった。家の前で、在郷軍人会長があいさつし、お礼と誓いの言葉があり、万歳三唱……。女性たちが弾よけの千人針を集めていた。上海、南京陥落の頃は旗行列があったが、だんだん無くなった。わが家は軍の注文が増え、忙しくなった。駒や碁石の袋詰めを僕も手伝った。

 40年、東京に戻り、中学に…

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