1979年夏の甲子園で、箕島(和歌山)と戦った「延長18回」は「チームにとっても、ぼくにとっても、大きな分岐点となる試合だった」と、星稜高校(石川)野球部元監督の山下智茂さん(77)は語る。
春夏連覇を達成することになる箕島を「あと1死」まで2度も追い込んだチームは、決して強いチームではなかったという。
あの世代は小松辰雄(63)が3年生になるときに、入学してきた連中。まず目を引いたのが堅田外司昭(60)。球の切れと制球力が抜群なサウスポーだった。
小松のあとは彼と考え、1年夏からベンチにいれた。周囲は不思議がった。小松のように、球がめっぽう速いわけではない。すごさが分かりにくいのだ。
ただ真面目な子で、自宅から毎朝約6キロを走って登校した。ぼくが乗る自転車を押しながら坂道を走らせ、千本ノックを浴びせた時期もあった。
小松が卒業したあとは勝てなかった。堅田たちが2年の秋(78年)も、北信越大会の決勝で福井商に敗れた。これで翌春の選抜大会出場は難しい状況になった。
さらに、その直後の交流試合でも金沢桜丘に負けた。
試合後、選手を正座させ、長時間説教をした。
「こんなに期待を裏切ったやつは初めてや」
堅田をしかり飛ばした。
選手たちは「もう、やってられん」「ふざけるな」と思ったのだろう。
翌日、2年生部員8人のうち…