無人島から生還したおばが残した手記 餓死と救出、尖閣で起きた地獄

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聞き手・伊藤和行
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 77年前、沖縄県石垣島から台湾に疎開する2隻の船が米軍機に銃撃され、80人以上が犠牲になる事件があった。「尖閣列島戦時遭難事件」といわれる。百数十人が尖閣諸島の魚釣(うおつり)島に漂着したものの、餓死者が続出し、生還者は体験をあまり語りたがらなかった。遺族会の事務局長を務める山根頼子さん(66)のおばも、その1人。山根さんは、おばが残した手記から島で起きた悲劇を考え、後世に伝えている。

――遭難事件のことを教えてください。

 「事件は77年前の1945年7月3日に起きました。石垣島は沖縄本島のような米軍上陸はありませんでしたが、お年寄りや女性らは島にいた日本軍の指示で台湾などに疎開することとなりました。しかし魚釣島付近を航行していた「第一千早丸」と「第五千早丸」が米軍機に見つかって銃撃を受け、第五千早丸は沈没、第一千早丸は魚釣島に漂着しました。

 漂着者は約40日間、島で生活しました。食料がなく、クバ(ヤシ科の木)の実やトカゲを食べてしのいだそうです。しかし餓死者も出ました。一方、救助を求め、島にあった木を集めて小舟をつくり、9人が石垣島に渡ることができました。奇跡的に、100人超が生還しました」

<尖閣列島遭難事件>  1945年7月3日、日本軍が石垣島から台湾に送り出した疎開船2隻(計約180人乗船)が米軍機に攻撃された。沈没を免れた第一千早丸が尖閣諸島・魚釣島にたどり着いたが、日本兵や住民ら100人ほどが取り残された。島で造った船で有志9人が約170㌔離れた石垣島にたどり着き、その後生き残った全員が救助された。犠牲者は80人以上とされるが、正確な人数は不明。

――事件のことはあまり知られていません。なぜでしょうか。

 「石垣島に生還した人たちは、戦後ずっと口をつぐんできました。だからその事実を詳しく知っている人は、石垣島でさえほとんどいません。私の曽祖父母は犠牲になり、24歳だったおばは九死に一生を得ましたが、事件について語ることはほとんどありませんでした」

――思い出したくなかったのでしょうか。

 「船には日本軍兵士数人と島民が乗っていました。おそらく、魚釣島で、食べ物をめぐる弱肉強食の地獄があったんだと推測します。生還者たちは、互いの迷惑にならないよう、魚釣島で見聞きしたことは言わないと決めたのでしょう。おばのことは母から『無人島からかえってきた人』と聞かされてて、おばに事件について教えてほしいと聴いても、『書いた以上のことは何もない』としか言いませんでした」

「人間の肉はおいしいぞ」

――手記があるのですか。

 「おばは、1983年に石垣市が編集した『市民の戦時戦後体験記録』に体験を寄せています。

 島で次々と餓死者が出たこと…

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