2004年に建築家の隈研吾さん(67)が刊行した「負ける建築」という本がずっと心に残っていました。建築家の建物は個性を主張するのが当然。そう思われていましたが、隈さんはひっくり返し、周囲の環境を受け入れ、折り合う建築を打ち出しました。
それから18年。SNSがすっかり普及し、一人ひとりの発信力が強まっています。でも、それが政治に届くことは、まだまれです。
私が籍を置く社会部は、選挙戦では現場を取材し、その時々の社会の課題などを伝えています。でも、それで政治が変わったと感じられることも、またまれです。
政治は、いまの大きな社会の変化に対応できているだろうか。そう考えていて「負ける建築」を思い出しました。この本の「建築」は「政治」に置き換えられるのではないか。ふだんとは違う視点で考えてみたいと、隈さんに対談をお願いしました。
政治は「偉そうなシステム」の根幹
《龍沢》今回は対談に応じていただき、ありがとうございます。初めて「負ける建築」を読んだ時、衝撃を受けました。隈さんは「負ける建築」で何を言おうとしたのでしょうか。そして、どういう思いで「負ける建築」を書いたのですか。
《隈さん》僕の上の世代の建築家がものすごく偉そうに見えたんです。より高いビル、より目立つ建物を作って「勝とう」という意識、ユーザーや近隣の人たちに「専門家が作るんだから勝って当然だ」みたいな意識を感じていました。そういう社会に対する上から目線のスタンスを批判しようとしたら、「負ける建築」という言葉が頭に浮かんだんです。実は何に負けるかは、はっきりしなかったんですが、少なくとも「勝つ」こと、「偉そう」であることを否定するというスタンスが、「負ける建築」という言葉で伝わると直感しました。この言葉が受け入れられたのは、そう感じていた人が多かったからだと思います。建築家は偉そうだし、建築は目立ちすぎる金食い虫だと、みんな感じていた。
《龍沢》今回の参院選をみていて、私は「負ける建築」の考え方を、今の「政治」に置き換えて考えられないかと思いました。
《隈さん》政治家についても…
- 【視点】
記事にある「粒子」という言葉から、政治が向き合うべき社会に置き換えて連想したのは、生きづらさを抱えながら日々を送る人々の存在、現行の社会システムの不備や死角に追いやられ、声を上げようにもその方法さえ身近にない人々の姿です。隈さんの「負ける建
- 【視点】
無観客での開催が決まった東京2020オリンピック開会式の当日、私が国立競技場に訪れて真っ先に感謝したのは、隈氏のアイデアでモザイク状に塗り分けられた観客席でした。観客席に本来は居るはずの多くの人々の姿がちゃんとそこに見えたからです。恐らく式