第4回歴史を変えた1972年、日中交渉の舞台裏は 外交官3人がいま語る
一方に事前の交渉がほとんどできずに首相・外相が北京に乗り込む「ぶっつけ本番」の困難があり、一方に戦後日本が経験することのなかった「別れの外交」があった――日本が中国との正式な外交関係を結び、台湾と断交してから50年。日中国交正常化とはいったい何だったのか。半世紀前の歴史は、巨大な隣国と向き合う今の私たちにどんな教訓を語っているのか。当時、北京、東京、台北でそれぞれ日中「復交」にかかわった3人の元外交官が語り合った。
【インタビュー連載】日中半世紀 わたしの声
日本と中国の国交正常化から9月で50年。長い交流の歴史を持つ一方、戦争の重い過去も抱える隣国との関係を、私たちはどう受け止めてきたのか。ゆかりのある方々へのインタビューでつづります。
3人の顔ぶれは以下の通り。
●北京=大平正芳外相の秘書官として国交正常化交渉のための訪中に同行した藤井宏昭氏(1933年生まれ。後に駐タイ大使、駐英国大使などを歴任)
●台北=日本が台湾の中華民国と断交する前、台北にあった日本大使館に3等書記官として赴任していた宮本信生氏(1937年生まれ。後に駐キューバ大使、駐チェコ大使などを歴任)
●東京=日中国交正常化交渉でアジア局長や中国課長ら幹部が総出で訪中した際、中国課首席事務官として外務省の留守番業務を担った小倉和夫氏(1938年生まれ。後に駐韓国大使、駐フランス大使などを歴任)
背を押した奔流の国際情勢
Q まずは当時の大きな状況を教えてもらえませんか。
藤井 いま振り返って、日中国交正常化を可能にした一番大きなものは当時の国際情勢だったのだと思います。
具体的に言いますと、主に三つのポイントがあると思います。
日中国交正常化の前年の1971年に、米国のキッシンジャー大統領補佐官が秘密訪中し、ニクソン大統領の訪中が決まったと発表されたこと。いわゆるニクソン・ショックです。
それからこれも1971年のことですが、国連で中国の代表権問題で、代表が中華民国から中華人民共和国に変わったことです。
3番目には、中ソ関係が悪化したことがあると思います。中ソ国境のダマンスキー島での武力衝突などの動きがありました。
中国側はですね。われわれが思っていた以上にソ連の脅威を感じていたわけです。
それから、中国には周恩来首相がいました。周恩来は昔、日本に留学していて、日本に愛着のある人ですね。当時すでにがんを患っていた。毛沢東も高齢化していました。
日本側について言えば、田中、大平および外務省事務局の息がぴったり一致していたことです。
宮本 私は小倉氏と一緒に1962年に外務省に入省しました。米東部の学校に同年9月に研修に行きました。そして、10月にいわゆるキューバミサイル危機が発生しました。そこで、当時の国際関係の基本には、核ミサイル戦力をめぐる米ソの激烈な確執が存在することを知覚しました。
米中のデタント(緊張緩和)というのは、米国がこれを背景にして、泥沼化したベトナム戦争を終結させようとしたものであり、中国の狙いは、中国の核武装をめぐるソ連との抗争において、対米、対ソの二正面作戦に陥ることを回避することにあったのだと思います。
そして、日中国交正常化というのは、日本もそういう国際情勢を見ながら、それにうまく乗っかったのだという気がしています。
小倉 ソ連の問題を言えば…
- 【視点】
日本が台湾と断交する前、椎名悦三郎さんが特使として訪台し、乗り込んだ車両に生卵が投げつけられ、運転手が反射的にワイパーを動かすと、かえって窓が汚れて前が見えなくなったという宮本信生さんの回想が、とてもリアルです。 田中角栄首相が上海に