第6回戦争で肉親を亡くした寂聴さん 最期まで「戦争にいい戦争はない」
⑥瀬尾まなほさんに聞く
瀬戸内寂聴さんにとって、戦争の影響は大きい。戦時中に青春時代を過ごし、北京で終戦を迎えた。その翌年に故郷の徳島に戻ると、防空壕(ごう)で母と祖父が焼死していたことを知らされた。晩年まで「戦争にいい戦争はない」とこぶしを上げ続けた。秘書の瀬尾まなほさん(34)に寂聴さんの平和への思いを聞いた。
連載「寂聴 残された日々」はこちらから
寂聴さんが亡くなる直前まで朝日新聞に連載していたエッセー「寂聴 残された日々」。単行本に未収録の分も読めます。
――寂聴さんは反戦・平和を訴え続けました。その根本にあるのは何でしょうか。
戦争を体験している世代が減り、戦争反対と訴え続けることが使命だと感じていました。自らの青春時代を戦争に奪われ、戦時中に北京に渡っていたので中国での惨状も見ています。戦争が起きると、特に未来ある子どもたち、若い人たちが犠牲になってしまう。そのことが一番許せないと言っていました。
「若い日に薔薇(バラ)を摘め」「青春は恋と革命」と繰り返し語っていたように、若者に期待していたんです。「若い人たちは、もっと自由に生きたらいいんだよ」と教えてくれました。若い人たちのエネルギー、若者の可能性を信じていました。
――戦争が寂聴さんを変えたことは何ですか。
青春時代に体験した戦争で、ものの見方や考え方が変わったと言っていました。お国のため、天皇のため、正しい戦争、いい戦争と教えこまれ、疑うことがなかった。それが戦争に負けた途端、百八十度、ひっくり返った。
自分で事実を確かめもせず、言われたことだけを信じてしまった。そんな自分自身に腹が立ったんだと思います。国も政治もマスコミもみんな信じられない。「自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の肌で感じて、自分の頭で考えたことだけを信じて生きていく」と話していました。
――1991年の湾岸戦争では直接イラクに行って、医薬品を届けました。
記事の後半では、寂聴さんが今生きていたらロシアのウクライナ侵攻に何を言ったか、そんな想像が語られます。
あのときは、即時停戦を祈っ…