甲子園で投手生命を絶たれたエース 斎藤佑樹さんと考える指導法

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 1991年、第73回全国選手権大会で準優勝した沖縄水産のエース大野倫さん(49)は決勝まで4連投するなど全6試合を完投、計773球を投じ、大会後に右ひじの剝離(はくり)骨折などが判明しました。

 投手生命を絶たれた大野さんの存在は、その後、高校野球における投手の障害予防の機運を高めるきっかけとなりました。

 いまは地元で中学生の指導に力を注いでいます。

 当時をどう振り返るのか。いま子どもたちに何を教えているのか。訪ねました。

     ◇

 ――31年前、右ひじを故障したまま決勝まで進みました。大会中に痛めたのですか。

 大会前によく言う「ひじが飛んだ」という感覚がありました。甲子園大会後に診断を受けたら、剝離骨折と靱帯(じんたい)の部分断裂など、五つくらい症状がありました。当時は、背番号1の投手がマウンドに上がらないことがなかなか考えづらい時代です。ごまかしながら戦っていました。

 僕自身、指導者や周囲には「いけます」と言っていた。前年も夏の甲子園で準優勝しており、「沖縄の悲願を」「来年こそは」という声が重圧にもなっていました。痛いと言える状況ではありませんでした。

大野倫さん

 おおの・りん 1973年生まれ、沖縄県うるま市出身。沖縄水産高時代、夏の全国選手権で2年連続準優勝。九州共立大では外野手として活躍し、95年秋のドラフト5位でプロ野球巨人に入団。ダイエー(現ソフトバンク)へ移籍し、2002年限りで現役引退。現在は地元で中学硬式野球「うるま東ボーイズ」の監督を務めながら、沖縄で野球普及活動を行っている。

 ――痛みがあるなかで、773球。決勝は大阪桐蔭に8―13で敗れました。今、改めて振り返ると、どう感じますか。

 酷なことですよね。春先に144キロだった直球が120キロに届くか届かないかという状況でした。それでも、「あの決勝で、もう少し踏ん張れたら」という思いが実は今もあります。

 深紅の大優勝旗を初めて沖縄に持って帰れたんじゃないかという思いが、ずっと心にひっかかっているのです。

 ――今年、沖縄は本土復帰50年です。

 沖縄の歴史と高校野球は、深くリンクしています。

 第40回大会(58年)に沖縄勢として初出場した首里の選手たちが持ち帰ろうとした甲子園の土は、検疫でひっかかりました。復帰後は同情のような声援を受けながらの甲子園です。次第に、「本土のチームには負けないぞ」という反骨心が芽生えた。

 そして、99年に沖縄尚学が春の選抜で沖縄勢として初優勝を遂げ、2010年には興南が春夏連覇を果たして、深紅の大優勝旗が初めて沖縄の地に渡ります。

 甲子園で勝つことが県民の自信につながった面があります。

 ――そういう歴史のなかで沖縄水産の2年連続の準優勝もあったのですね。

 そうですね。県民の期待に応えたい、という気持ちは強かったです。

 ところで、僕が投げた773球も多いとは思うのですが、斎藤さんの夏の甲子園での投球数は948球(第88回大会=06年、決勝再試合を含む)。痛みなどはなかったのですか。

 ――僕は「痛い」とか「もう無理だ」という感覚は無く、筋肉痛がずっと続いているような感じでした。地面からの力をロスなく指先に伝えられた感覚があって。大学やプロでは、なかなかその感覚は得られなかったのですが。

 理にかなった、しっかりしたフォームで投げられていたということですね。

 ――大野さんは先ほど、中学生に「手先が疲れる選手はよくない選手。下半身が疲れる選手はいい選手」と指導されていましたが、まさにそんな感じでした。

 斎藤さんはあの夏、体全体を使って投げられていたということですね。勉強になります。

 ――大野さんは九州共立大で野手として活躍し、プロ野球巨人に入団しました。すごいことだと思います。

 僕は恵まれていました。エースと4番打者というカードを2枚持っていた。投手生命を絶たれたけがは悔しかったけど、打者という選択肢が残っていた。だから今、子どもたちには、複数ポジションができるように指導しています。

 ――ほかに指導で意識することはありますか。

 「無事これ名馬」という言葉があります。やっぱりけがなくプレーできることが何よりだと思います。

 高校時代の僕は、柔軟性や可動域を全く意識せず、体の強さばかりを追い求めていた。それもけがが多かった理由の一つだと思っています。

 今は専門的な知識を手に入れやすく、プロが学ぶようなトレーニングを12、13歳の子どもたちが勉強することも出来ます。

 けがなくプレーができれば楽しく感じるし、野球をもっと好きになる。好きになれば、向上心が出てくる。そして、野球人口も増えてくる。

 そういう環境を提供したいと思っています。

 ――子どもたちを支えるために、プロもアマチュアも一緒に力を合わせていけたらいいですよね。

 斎藤さんがぜひ、そういう野球界の先頭に立ってください。

 甲子園での真剣勝負の魅力は50年後も100年後も変わらないと思います。

 ただ、戦い方や起用法は「選手ファースト」で改革していって欲しいのです。

 プロの例えになりますが、みんなが見たいのは、連投で疲弊して130キロの直球を投げて打たれる大谷翔平選手の姿ではなく、元気いっぱいに160キロの豪速球を投じる姿ですよね。

 球児たちがけがをせずに最高のパフォーマンスを見せる。その姿にファンは熱狂する。

 高校野球ファンとして、そういう光景を見続けていきたいと思っています。

大野倫さん

 おおの・りん 1973年生まれ、沖縄県うるま市出身。沖縄水産高時代、夏の全国選手権で2年連続準優勝。九州共立大では外野手として活躍し、95年秋のドラフト5位でプロ野球巨人に入団。ダイエー(現ソフトバンク)へ移籍し、2002年限りで現役引退。現在は地元で中学硬式野球「うるま東ボーイズ」の監督を務めながら、沖縄で野球普及活動を行っている。

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