挫折を知り、強くなった2人 柳田将洋が吉田知那美から学んだ価値観

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構成・木村健一
【プロローグ動画】吉田知那美vs柳田将洋 アスリート対談
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 バレーボール元日本代表の柳田将洋(30)=ジェイテクト=は2月、北京オリンピック(五輪)でカーリング女子日本代表の活躍に魅了された。五輪2大会連続のメダルを獲得したロコ・ソラーレの吉田知那美(31)と対面し、語り合った。

 ともに代表やチームから外された経験がある2人は、どう乗り越えたのか。何でもこなすオールラウンダーとは? チームメートとのコミュニケーションとは?

 柳田は北京五輪のカーリング女子日本代表の試合をテレビで観戦し、引き込まれた。

 柳田 「精度ですね。狙った意図や解説を聞いて、ルールを自分で調べながら、のめり込んでいった。選手たちが形にしていくのを見て、そんなことができるんだ、というサプライズがすごかった。プレッシャーのかかる場面で結果を出すのは、アスリートとして参考になりました」

 吉田 「結構時間がたって、忘れかけているんですけど、ラウンドロビン(予選リーグ)最終戦で、勝てば(準決勝に)上がりという所で負けてしまって。私たちが『もう終わった』と思い込んでいたら、コーチが『上がりだよ』と伝えてくれた。あの瞬間は、人生で経験したことのないような地獄からの天国、一気に救い上げられた、すごい感情の波が大きい時間でした」

吉田知那美(よしだ・ちなみ)

 1991年7月26日生まれ、北海道北見市常呂町出身。小学生でカーリングを始め、道立網走南ケ丘高卒業後、カナダへ留学し、帰国後、北海道銀行へ。2014年ソチ五輪に出場後、戦力外となり、ロコ・ソラーレへ移籍。18年平昌五輪で3位に入り、日本カーリング史上初のメダルを獲得。今年2月の北京五輪では銀メダル。7月の誕生日に、全日本スキー連盟アルペンスキーコーチの河野恭介さんとの結婚を発表した。ネッツトヨタ北見所属。

 吉田は高校卒業後、カナダ・バンクーバーへ留学。柳田はプロになって、ポーランドやドイツでプレーした。

 吉田 「ライバルチーム(の選手たち)は大学へ行ったんですけど、私たちはそこまでのレベルに達していなくて。進路の関係で、一緒にやってきたチームでカーリングができなくなって。その頃、ちょっとした反抗期、思春期でした。『カーリング以外にも、私は絶対に何かができる』という反抗心、道があるはずだという反骨的な気持ちで留学を選んだんです。結局、ホームステイ先は、カーリング日本代表のコーチの家で。『カーリングをしたい』という正直な気持ちを伝えて、カナダで再開しました」

 「カナダはカーリング大国なんです。国技のように、小さい子からおじいちゃん、おばあちゃんまでみんなで遊ぶ。夜にリーグ戦があって、年齢も性別も問わず戦って、終わったら、バーで乾杯して。『勝たなきゃ、勝たなきゃ』という考えから、カーリングで遊ぶということを覚えました」

 吉田はソチ五輪に出場後、所属していた北海道銀行のチームから“戦力外通告”を受けた。

 吉田 「スポーツの世界だったらよくあることですけど、初めての経験だったので感情の揺れ動きがあって。『来シーズン、このチームにいない』と言われた瞬間は、もうショックで放心していました」

 「時間が経つにつれて、だけど、やっぱり悔しいとなって。途中で『戦力外にしたことを絶対にみんなが後悔するような選手になってやる』と思って。ロコ・ソラーレに入ってからは、『絶対に手放さなきゃよかったって思わせてやる』という気持ちで何年かやっていました。当時の顔つきはきついですし、闘志があったんです」

 「けど、時間を過ごしているうちにちょっと変わってきて『感謝』になっていった。あの時、『このままではダメだよ』と言ってくれたからロコ・ソラーレの日々もあるし、自分も強くなっていけた、という今は感謝の気持ちです。自分次第で、きっと人生最高のターニングポイントにも変えられるんだろうなと思っています」

 吉田知那美選手の挫折が"戦力外通告"なら、柳田将洋選手のそれは東京オリンピックの代表選考落選でした。どう乗り越えたのでしょうか。同世代の2人には、競技を超えて共感できる点がたくさんあったようです。記事後半では対談の本編動画もご覧いただけます。

 柳田 「僕自身も、東京オリ…

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