第3回空襲で失った右脚 まちを守れなかった私が決して忘れないこと

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構成=編集委員・石橋英昭
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 本土空襲が激しさを増した1945年7月。日佐戸(ひさと)輝(てる)さん(99)の高射砲部隊は軍都を守るべく、仙台に派遣された。だが備える間もなく焼夷(しょうい)弾に襲われ、日佐戸さんは右脚を失った。部隊が役目を果たせなかったことが、「くやしい」と言う。

戦火の中で青春を過ごした人たちは、百歳前後になろうとしています。その体験をいま、書き残しておきたい。戦後77年の夏、あらためて耳を傾けました。

 私は醬油(しょうゆ)のまち千葉県野田市で生まれ育ちました。定年まで働いた職場も地元のキッコーマンです。

 最初の召集は44年。朝鮮で3カ月の訓練を受け、除隊になりました。

 45年3月10日の東京大空襲では、姉の一家が全滅しました。2カ月後、2度目の召集令状が来ます。千葉県の柏にある高射砲115連隊18中隊(照空隊)に入隊。連日飛んでくるB29機の編隊を電波探知機がとらえ、数字を送ってくる。そこから航路を割り出し、一斉に空を照射して、高射砲で迎え撃つのです。

 部隊は7月、次に仙台への移動を命じられました。「近々空襲で狙われる」との情報が入ったとか。9日早朝に仙台駅に到着し、予定の陣地に高射砲などを運びだしますが、私たちは警戒兵として、駅で待機していました。

 深夜、倉庫で休んでいると…

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