ヘリから叫びたかった「現場はここだ!」 37年前、元記者の後悔

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構成・松田果穂
日航123便墜落事故当日の夜に墜落現場の御巣鷹の尾根を上空から取材した元記者とともに、「御巣鷹のいま」を空から見つめた
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 日本航空のジャンボ機が群馬県上野村の山中に墜落し、520人が犠牲になった事故から12日で37年を迎える。墜落現場の御巣鷹の尾根には事故直後から現在まで遺族らが慰霊に訪れており、慰霊碑や登山道も整備されている。長い年月を経て、尾根はどのように表情を変えたのか。1985年の事故当日、朝日新聞社ヘリで現場を取材した元記者・藤森研さん(73)とともに、空から見た。

場所も分からずに現場へ

 1985年8月12日、午後7時過ぎ。朝日新聞東京本社の編集局で、誰かが叫んだ。

 「日航機がレーダーから消えた!」

 瞬間、フロア中が総立ちになった。

 その場にいた記者が、運輸省(現・国土交通省)や羽田空港を担当する記者のポケベルを次々に鳴らす。そんな中、社会部長から「羽田のオペセン(オペレーションセンター)に行ってくれ」と指示を受け、ハイヤーに飛び乗った。

 空港に着くまでの道中も、車内の無線から指示が飛ぶ。

 「墜落した場所がわからない。羽田に着いたら、ヘリに乗ってくれ」

 了解、と返したものの、お盆休みの首都高は渋滞。築地の本社から羽田まで約30分、じりじりとした気持ちで窓の外を眺めた。

 羽田空港の格納庫で先輩記者やカメラマンと合流し、離陸したのが午後8時半。一報を受けてから1時間半近く経っていたが、他社の気配はなく「一番乗りだ」と思った。こんなときでも、はしたないことを考えるのだなと、自分でも思ったのを覚えている。

 ヘリの無線からは、不確かな情報が飛び交った。ひとまず、御座山がある長野県の北相木村へ、多摩川沿いを北上して最短距離で向かった。

暗闇の中、炎が点々と……

 東京の光の海を越えて奥多摩に入ると、ようやく山岳地帯が黒い帯のように広がった。右後ろを振り返ると、前橋と高崎の大きな二つの明かりが見えた。

 突然、誰かが叫んだ…

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