一度だけ描いた地獄絵図 広島で被爆の画家「原爆に美なんかない」

核といのちを考える

編集委員・石橋英昭
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 宮城県登米町(現・登米市)出身の日本画家・高倉勝子(1921~2015)には、生涯でただ一度、心の鍵をこじ開けて描いた作品がある。85歳のとき、自身の広島での被爆体験を、横4メートル余の絵巻物風に表現した「原爆の図」だ。絵はいま、郷里に建てられた小さな美術館に掛けられ、画家の思いを伝え続ける。

 1945年夏、勝子は陸軍将校の夫と結婚し、広島に2人で赴任した。原爆に遭ったのは、爆心から3キロの旧段原町の家。新しい生活が始まって1週間もたっていなかった。

 爆風にふきとばされ、畑の中で気を失った。その日夕方、捜しに来た夫に蘇生術を施され、勝子は一命をとりとめる。自らも傷を負いつつ、負傷兵らの世話を命じられ、地獄の惨状を目に焼き付けた。

 戦後は仙台に住み、中学校の美術教師として働きながら、3人の男の子を育てた。被爆の影響を心配し、長男が健康優良児でほめられたことを、たいそう喜んだという。

 三男の篤麿さん(68)によると、勝子は子らに被爆体験をよく語って聞かせたが、画材にすることはなかった。母親にその理由を尋ねたことがある。

 「私は芸術家のはしくれよ。芸術とは美しいものを追求すること。原爆には、『美』なんて一つもありません。だから描かない」。勝子はきっぱりと答えたという。

 その言葉通り、絵の道を究めた。好んで題材にしたのは、力強く働く女性や健やかな少女たちの像だ。河北新報社主催の美術展で、受賞を重ねた。

 そして被爆61年後、封印を解く時が来る。

 被爆者健診を受けてきた病院の看護師に、強く促されたのだ。「高倉さん、あなたが描かなくて誰が描くの」。自宅の廊下に和紙のキャンバスを並べ、正座して向き合った。3カ月をかけ、ときに泣きながら仕上げた。当初の題は「平和の祈り」だったという。

 赤く渦巻く炎。

 川面には、黒い人の形が無数に浮かぶ。

 勝子とみられる女性のモンペに少女がしがみつき、助けを求めている。

 文章もびっしりと刻まれた。「焼けこげてただれた顔 見分けようもなく着衣は焼け落ち 皮膚はボロのようにたれ下り……」「水をください 水がのみたい 水、水、水、兵隊さんタスケテ!」

 絵巻物の最後には、白い芙蓉(ふよう)の花が描かれた。草木も生えないと言われた広島を勝子が去る時、農家の庭先で見かけたのだという。「声を上げて泣いた。私も生きなければ」と書き添えてある。

 篤麿さんは最近、母の絵をこう解釈するようになった。「原爆に『美』なんてないと言ったけれど、こんな悲惨な地にも『希望』は芽生えていたと、伝えたかったのではないか」

 勝子はこの絵の完成から数年後、絵筆を置いた。

 そのころ篤麿さんに、右足のももの古傷を初めて見せた。時折、うみがにじみ出てくるという。「よく見ろ。この傷はずっと消えないんだ」と。

 大事な大事なことを、言い残すかのようだった。

     ◇

 「原爆の図」は、勝子が作品群と建物を寄贈した「登米市高倉勝子美術館・桜小路」で常設展示されている。年末年始以外は無休、観覧料は一般200円。(編集委員・石橋英昭

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