第6回血眼に原爆追い求めたソ連 終戦翌日からスパイは広島・長崎へ入った

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編集委員・副島英樹
【動画】ソ連調査団による被爆地調査の映像=広島市提供
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ソ連が調査した被爆地<上>

 1945年8月6日、米国が投下した原爆の惨禍を生き延びた「被爆バイオリン」が広島にある。10年前に修復されて音を取り戻し、国内外で演奏されてきた。

 このバイオリンの持ち主は、ロシア出身の男性だった。1917年に起きたロシア革命の後、日本に亡命した。

 現在のロシア側の資料によると、77年前の広島には男性を含め六つの家族、計14人のロシア出身者がいた。5人が被爆死した。

 米国とともに世界の9割超の核兵器を保有し、ウクライナ侵攻にあたって「核の脅し」を振りかざしたロシアは、世界で初めて実戦に使われた核兵器の被害者でもあったのだ。

 では、そのロシア、かつてのソ連が核大国になっていったのはなぜなのか。

 その原点とも呼べるものがある。被爆直後の広島、長崎でソ連がしていた実態調査だ。45~46年に少なくとも3回あり、うち2回は報告書も現存している。

 このあまり知られていない史実をひもときたい。

「スターリンは原爆を真剣に考えていなかった」

 ソ連は戦後、急ピッチで核兵器の開発を進めた。第2次世界大戦でともに戦勝国となった米国との対立が始まっていた。

 米国の歴史家デービッド・ホロウェイ著「スターリンと原爆」(大月書店、川上洸・松本幸重訳)には、こんな記述がある。

 「原爆が製造可能であることをヒロシマが最も劇的な形で示すまでは、(ソ連の最高指導者)スターリンは原爆を真剣に考えていなかった」

 「第2次世界大戦末期に形成されつつあった力の均衡は、この新たな恐るべき兵器によってくつがえされた。スターリンは、できるだけ早くソ連が原爆を入手することで、均衡を復活させようとした」

 当時のソ連は、米国に先を越された原爆を必死に追い求めた。その証しとなるのは、被爆からまもない広島、長崎にソ連が人を派遣し、原爆の威力について調査していたという事実だ。

 最初の調査は、1945年8…

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