長崎で被爆した「原爆稲」 栃木の農家が引き寄せられたのは

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中村尚徳
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 1945年8月9日、長崎市で被爆した稲の子孫「原爆稲」が、栃木県上三川町の水田で育てられている。食べるためではない。77年たった今も放射能の影響が残る事実を後世につなぐため、農家の上野長一さん(70)が約20年前から「生き証人」の栽培を続けている。

 米や麦を栽培する約17ヘクタールのうち、「原爆稲」は、その一部の約15平方メートルに植えられている。7月下旬、草丈はひざが隠れる高さまで伸びていた。外見はコシヒカリなどと変わりはない。だが、上野さんは言う。

 「秋に出る稲穂には食べられる黄金色に実ったもみもありますが、8割ほどは青っぽい緑色のもので中身が入っていません」

 「空もみ」が混じるのは、強い放射能を浴びて染色体に異常が生じたためで、何年経っても変異体は繰り返し出てくるという。

 「原爆稲」の起源は敗戦後の45年10月にさかのぼる。九州大学農学部の研究室が、爆心地から約500メートルの浦上天主堂近くの水田で採取した。わずかに芽を出した株を育て、種子を採っては植えることを繰り返した。

 研究に区切りがついた後は…

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