長崎で被爆、ビキニで被曝 広島の惨状も知る92歳が許せないこと

有料記事核といのちを考える

蜷川大介
[PR]

 被爆と被曝(ひばく)。長崎、広島、太平洋の三つの現場に身を置いた男性がいる。

 高知県土佐清水市の横山幸吉さん(92)。1945年8月9日に長崎で被爆し、数日後に広島を通って故郷の高知へ帰った。9年後、米国による太平洋のビキニ環礁での水爆実験でも被曝した。

 横山さんの証言を収めた動画が5日、広島市で開かれた原水爆禁止日本協議会の世界大会で上映された。被ばくの経緯を振り返り、当時の状況を生々しく語った。なかでも太平洋での被曝について「放ったらかしで、あんまりだ」と訴えた。

長崎のトンネル工場で魚雷作り

 14歳だった44年、教師の指導に従って三菱重工業長崎兵器製作所(三菱兵器)で働き始めた。週3日は職工の養成学校で学び、週3日は旋盤工として魚雷を作った。山腹に掘られた長さ300メートルほどの「トンネル工場」が仕事場だった。

 45年8月9日午前11時2分。トンネル内の明かりが消えたと思った瞬間、爆風で体を吹き飛ばされ、旋盤の間に体が入りこんだ。衝撃が収まった後、40メートルほど歩いてトンネルの外へ出ると街は火の海だった。

 「新型爆弾だ」とすぐ思った。広島が攻撃されたと新聞で読んでいた。暗いトンネルを逆戻りして山へ逃げた。人の流れに加わって何時間も歩いた。

 夜は倒壊した建物から布団を運び出して地面に敷いて寝た。パッと明るくなり、「またやられる」と思ったが照明弾だった。周囲には負傷した兵隊や民間人がいて大混乱していた。

瀕死の人を運び、「家に帰ろう」と広島へ

 翌日、友人を捜しに三菱兵器の工場へ向かった。やけどを負った人が川で大勢亡くなっていた。憲兵に呼び止められ、負傷者を運ぶよう指示された。瀕死(ひんし)の人を戸板に乗せて駅へ運んだ。たくさんの遺体をみた。

 「このままでは自分も死ぬ。高知の家に帰ろう」。高知出身の友人と再会し、2人で汽車に飛び乗った。広島駅で汽車が止まった。駅舎の屋根は落ちていた。街は焼け野原。水が漏れているタンクを見つけ、飛び降りて飲んだ。

 連絡船で高松に渡って、再び…

この記事は有料記事です。残り1118文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
核といのちを考える

核といのちを考える

被爆者はいま、核兵器と人類の関係は。インタビューやコラムで問い直します。[記事一覧へ]