第12回「退化する関係 相互信頼は1万歩先」 浅井基文・元明治学院大教授

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聞き手 里見稔、編集委員・藤田直央
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 日中関係は1970年代末からの中国への途上国援助(ODA)が呼び水となり、経済で関係は深まった。しかし、歴史問題はくすぶり続け、安全保障面での緊張も高まり、国交正常化50年を迎えてもトンネルの出口は見えないままだ。両国の首脳が信頼関係を築こうとした80年代前半に在中国日本大使館参事官と外務省中国課長を務めた、浅井基文・元明治学院大学教授(81)に聞いた。

連載「日中国交正常化50年 外交記録は語る」(全13回)

日中国交正常化から9月29日で50周年を迎える。この間、さまざまな政治家や官僚らの往来があり、日中関係には紆余曲折があった。1970年代末から90年代初めにかけてを外交記録から読み解く(敬称略)。

 ――浅井さんが北京の在中国日本大使館で参事官だった82年、かつての日本の中国侵略について歴史教科書で表現を見直そうとする「教科書問題」が起きました。

 問題が起きた当初、体調の関係で一時帰国していました。ちょうど国交正常化10年でしたが、お祝いムードはなかった。日中どちらからも祝福を切り出す雰囲気ではありませんでした。

 ――北京に戻って接した中国外交当局の反応はどうでしたか。

 いやー、厳しかった。70年代に入って日中共同声明と平和友好条約を結び、日本は歴史を反省したはずなのに、こういうことをするのかと。日本人の歴史観はうさん臭いと思われた。日本では、中国人は裏表があって脅しているだけではという見方もありましたが、北京に戻って感じたのは本当に怒っていたということです。

 ――社会主義の中国では、鄧小平が78年に市場経済を取り入れる改革開放を打ち出します。同年には新幹線に乗って感激したという鄧小平の来日があり、79年には大平正芳首相が訪中して改革開放を支えようと対中ODAを表明します。

 新幹線に乗った鄧は日本の技術力に驚いていました。中国を何とかしなければと、日本との協力関係を本気で考えるようになりました。その後、鄧からの信頼が厚かった胡耀邦中国共産党総書記が、82年の党大会演説で米ソよりも先に日本を取り上げ、私はひっくり返るくらい驚きました。日本と本気で仲良くしようとしていると感じました。

 ――当時、日本側は中国をどう見ていたのでしょう。

 まだ懐疑的でした。今ほどひ…

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連載日中国交正常化50年 外交記録は語る(全13回)

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