第7回爆風、炎のカーテン…弟を奪った空襲 11歳の私は泣く暇もなかった

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構成・井上潜
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 やせ細った10歳くらいの少年が、裸足のまま、弟とみられる幼子の遺体を背負っている。涙を見せず、直立しているのは、焼き場だ。原爆が落とされ、焦土と化した長崎で撮られた1枚の写真。その写真に目を落とすと、富樫仁英(ひとえい)さん(88)=秋田市=はつぶやいた。「私と似ている」

戦火の中で青春を過ごした人たちは、百歳前後になろうとしています。その体験をいま、書き残しておきたい。戦後77年の夏、あらためて耳を傾けました。

 秋田に空襲があった時、私は11歳、小学校6年生。おやじは(秋田市土崎に当時あった)日本石油秋田製油所の社員だった。日石の運輸課に勤めていたから、軍人や警察がおやじのところに打ち合わせに来ていた。「石油をどうする」って。米軍の飛行機が「秋田も爆撃する」っていうビラをまいていったから。

 爆撃のあった日は、朝一番の汽車で、おふくろと弟の勇英(ゆうえい)と一緒に、秋田県五城目町内の集落に疎開していた上の弟に会いに行った。上の弟は私の四つ下。勇英はまだ1歳になっていなかった。

 上の弟に会い、土崎の家に帰ったのは夜8時か9時。疲れて布団に入った。おふくろは爆撃の初発が落ちるころにはラジオで米軍の飛行機がどこに向かって行ったとか聞いていて、防空ずきんをかぶって勇英をおんぶして準備していて。それで留守番をしてくれた女性2人と私を起こして。

 社宅の雨戸が一発で全部外れ…

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