長崎原爆の日 24歳の記者が取材を通じて考えた核問題

核といのちを考える

岡田真実
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 ロシアによるウクライナ侵攻、核軍縮・核廃絶を目指す条約の国際会議。核兵器をめぐる議論が活発になるなか、長崎は原爆の日を迎えた。

 9日、早朝から私(24)は爆心地公園にいた。年齢に関係なく、多くの人が訪れ、手を合わせていた。

 4月から平和担当になった。たった数カ月だがこの間の取材を思い返した。

 6月にオーストリア・ウィーンであった、核禁条約の第1回締約国会議。被爆当時の記憶がないなか、家族から聞いた話を必死に語る川副忠子さん(78)や、核の問題を自分自身の問題だと捉え、核廃絶を訴える若者の姿を見た。

 帰国後、長崎原爆忌へ向けて、被爆者の方々の話を聞く機会が増えた。

 13歳の時に長崎で被爆し亡くなった谷崎昭治さんは、希望する旧制中学に通うため、実家を離れ長崎市で下宿していた。

 10人きょうだいの三男。妹と弟たちもいて、お金がかかることを気にしていたという。「兄もおじと同じように医者になりたかったんじゃないかしら」。谷崎さんのことを話してくれた妹の山口ケイさん(82)が言った言葉が心に残った。

 77年前を生きていた人たちにも今と同じように日常があった。そして未来があった。一発の原子爆弾が約7万4千人の日常と未来を奪った。そんな、数え切れないほどの人生を狂わせた核兵器が、いま再び使われるかもしれない危機にある。

 取材した全員が、77年前の状況と現在のウクライナ侵攻を重ね合わせていた。被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた宮田隆さん(82)は、「被爆は僕の『負の宝』。核廃絶のためなら、フルで使っていきたい」と話した。

 核問題は、どこか自分とは距離の遠いような、ハードルが高い話のような気がしていた。でも、今を生きる全員に関係している。

 式典後、長崎で郵便配達中に被爆し、核兵器廃絶を訴え続けた谷口稜曄(すみてる)さん(1929~2017)と関わりのあった映画監督の川瀬美香さんと会った。「核の問題は全員が関わってもいいと気づいた」。自分の思いを伝えた。川瀬さんは「関わってもいいじゃなくて、全員が関わらないとだめなんです」。

 自分の認識の甘さを痛感した。私も今を生きる一人として核問題に関わろう。記者として原爆忌を新たなスタートとして記事を書き続けたい。(岡田真実)

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