原爆投下の朝、届かなかった出産祝い 手帳申請を拒んだ母の苦悩

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堀川勝元
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 失って初めて知る親の思いがある。東京都町田市の竹中清史さん(83)もそうだった。

 1945年8月6日。当時6歳の竹中さんは、広島市に住んでいた。朝食を終え、布団を片付けるため、2階に上がろうとしたとき、カメラのフラッシュを何十回も一度にたいたような光が飛び込んできた。

 「お日さんが落ちた!」。記憶はおぼろげだが、そう叫び、洗面所にいた母・芳子さんにしがみついた。爆風が家に吹き込み、家族6人で防空壕(ごう)に逃げ込んだ。

 自宅は爆心地から南東に約3キロの場所にあった。しばらくして外に出ると、家は柱だけになっていた。そばの川では、男女の見分けがつかない人たちが飛び込んでいた。

 家族は全員無事だった。終戦後、両親の出身地の大阪府で暮らした。57年、政府は被爆者手帳の交付を始めた。被爆の影響で病院にかかる際などに医療費が支援されるようになった。

 芳子さんは手帳を申請しようとしなかった。10代のころ、理由を尋ねても教えてくれなかった。「のうのうと生きている自分がこれ以上を望むのは、亡くなった人たちに申し訳ない」。口を開いても、そう言うだけだった。

 竹中さんは大学卒業後、化学メーカーに就職し、東京に移り住んだ。母の心の内を知ったのは17年前。芳子さんが90歳で亡くなり、大阪の実家で遺品を整理した際、手記が見つかった。

 原爆投下の6日前、芳子さん…

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