バットを銃に変え、戦場で散った球児たち 甲子園で感じた平和の尊さ

鷹見正之
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 8月15日。終戦の日の正午、阪神甲子園球場にサイレンが鳴り響く。3万1千人の観衆に黙禱(もくとう)が呼びかけられた。

 スタンドを埋める観客と選手が一緒に戦没者を悼むのは4年ぶりだ。

 新型コロナウイルスの影響で、第102回大会が中止になった一昨年の甲子園交流試合は無観客、昨夏の第103回大会は一般客は入れなかった。3年前の第101回大会は台風の影響で15日は試合がなかった。

 夏の甲子園で高校野球の取材をしているからだろうか。

 この日が近づくと、かつて岐阜総局で勤務していたころ、繰り返し聞いた名前を思い出す。

 松井栄造と近藤清。

 2人は1936(昭和11)年の第22回大会で初優勝した岐阜商(現・県岐阜商高)のメンバーだった。

 エースだった左腕松井は縦に割れるカーブで打者をきりきり舞いさせたという。岐阜商は戦前、選抜でも3度、優勝している。松井は春夏あわせて3度も優勝投手となった。

 後輩の近藤は遊撃手として活躍した。

 ともに早稲田大に進学し、松井は打者に転向して神宮球場を沸かせた。

 41年、太平洋戦争が始まった。

 松井は出征し、43年5月、中国で頭を撃ち抜かれて亡くなった。

 近藤は特攻隊員となり、45年4月、沖縄近海で敵艦に突っ込んだ。

 ともに24歳だった。

 36年の岐阜商の優勝メンバーのうち、実に5人が戦死した。

 三塁手の加藤義男は42年にビルマ(ミャンマー)で、弾薬運搬船の指揮官だった二塁手の長良治雄は沖縄方面で亡くなった。

 松井の球を受けた捕手の加藤三郎も特攻隊員として散った。

 戦後77年。とても戦争が遠い過去のものとは思えない、夏が過ぎていく。

 児童文学作家の堀野慎吉さん(73)=岐阜県関市=は数年前、絵本「野球選手は南の海に散った~近藤清の青春~」を出版した。

 終戦の日を前に電話で話を聞いた。

 「当時の球児たちはバットを銃に替えて戦争に行かなければならなかった。こうして当たり前のように甲子園で野球ができ、それを観戦できることは幸せだと感じます」

 スタンドの記者席で目を閉じ、あらためて平和の尊さを考えた。(鷹見正之)