淡路島には要塞があった 話したがらぬ住民たち…いまだ残る多くの謎

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森直由
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 大阪湾を目指す敵艦を迎え撃つ目的で、旧陸軍兵庫県洲本市由良地区を中心に整備した「由良要塞(ようさい)」。地元で生まれ育ち、戦後に研究者らを何度も跡地に案内してきた花野晃一さん(78)は、戦時中の要塞とされる写真を保管している。「要塞跡を保存し、若い世代への平和教育のために活用してほしい」と願っている。

 終戦後に要塞は米軍に破壊されたが、砲台や観測所などの跡は今も山中にあり、観光客らが訪れている。跡地に残る説明板などによると、明治政府は京阪神につながる紀淡海峡を重視し、近代要塞の建設を決定。1889(明治22)年から淡路島と対岸の和歌山県側で整備を始め、由良地区の生石(おいし)山の尾根沿いに少なくとも5カ所の砲台を築いた。だが、航空機が主力になった太平洋戦争では軍艦を迎撃する機会はなく、実戦砲撃をすることは一度もなかった。

 花野さんの父、十一(じゅういち)さんは要塞で大砲の角度を計算する任務に就いていた。戦後、要塞で撮影したとみられる集合写真などを持ち帰ったが、要塞や戦争の話をしたがらなかった。跡地には近づこうとせず、1974年に56歳で病死。花野さんは「数年前に砲弾が見つかるなど、今も記憶に生々しい場所。住民たちも、当時からあまり要塞の話をしたがりませんでした」。

 その後、花野さんは複数の要…

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