仙台育英が越えた「白河の関」、その歴史は 令和の時代に突然脚光

内山修
[PR]

 第104回全国高校野球選手権大会で、仙台育英(宮城)が優勝し、深紅の大優勝旗が初めて東北にもたらされました。その偉業は「白河の関を越えた」と言われますが、令和の時代に注目される「白河の関」とは、何なのでしょうか。その歴史は奈良時代にさかのぼります。(2018年6月に朝日新聞紙面に掲載した記事「東北細見 白河関跡」を一部修正して再掲します)

 東北地方という呼称は戊辰戦争の当時、新政府によって用いられるようになったのが始まり――。東北学院大の岩本由輝名誉教授は、そう指摘する。それより前、今の東北6県は陸奥(みちのく)と出羽、あるいは両地域を合わせて奥羽と呼ばれていた。

 平安時代、陸奥の名所の数々が歌に詠まれた。都から遠く離れた異境の地は貴人たちの想像力をかき立て、憧れを誘ったらしい。中でも、陸奥との関門である白河関は、歌枕として多くの歌に登場する。

 陸奥とは「白河関の向こう側」と同義語であったのかもしれない。西洋史家の樺山紘一は「中世までの歌人たちの東北観というのは、はるかかなたから辺境をみやる畿内文化人の意識の投影でしょう」と読み解く。

 福島県白河市中心部から南に約10キロ。両側を山に囲まれた田園地帯に、森に囲まれた小高い丘がある。1966年、国指定の史跡となった白河関跡だ。

石段60段、真夏でもひんやり

 鳥居をくぐり、石段を上ること60段。鎮守の白河神社に着く。樹齢数百年とおぼしき杉の大木が陽光を遮り、真夏日でもひんやりとする。

 「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」

 境内の歌碑には、能因法師のほかに、平兼盛と梶原景季の歌も一首ずつ刻まれている。

 奈良時代から平安時代にかけて、白河関は人や物資の往来を取り締まっていたが、律令制度の衰退とともに役目を失ったとされる。江戸時代松尾芭蕉が曽良と歩き、大名たちが参勤交代で往来した陸奥と下野の国境は、史跡より5キロほど北西の旧奥州街道(現国道294号)沿いにある。

 どこが白河関なのか。議論を「着地」させたのが、白河藩主の松平定信だった。考証の末、1800年に今の史跡がある地を古関跡と定めた。戦後の発掘調査では、役所跡とおぼしき出土品が多数見つかった。

 司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で、「芭蕉も、この関については、こまったろう」と同情する。そして、「私は、どちらでもいいのである。ただ、白河とよばれたこの一円に、白河の関というものがあったと考えるだけでいい」と、つづっている。

白河関跡は国指定史跡 県境には芭蕉の句碑も

 国指定史跡「白河関跡」は、東北新幹線新白河駅からタクシーで約30分。隣接する白河関の森公園には売店や飲食店もある。白河市内には、戊辰戦争で焼失した後、復元された小峰城や松平定信が築いた名勝・南湖などの見どころも。一方、旧奥州街道(現国道294号)の栃木・福島県境には「境の明神」がある。松尾芭蕉が、みちのくの第一歩をしるした場所として句碑や歌碑が建立されている。(内山修)