第16回寂聴さんのそばで30年、「明日から来て」で始まった寂庵の日々

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聞き手・岡田匠
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馬場君江さんに聞く①

 瀬戸内寂聴さんは1973年に得度し、「晴美」から「寂聴」になった。その後、京都・嵯峨野に寂庵(じゃくあん)というお寺を開いた。このお堂を30年間守ってきたのが、スタッフで堂守(どうもり)の馬場(ばんば)君江さん(75)だ。料理をはじめ身の回りの手伝いをし、2021年11月9日には寂聴さんの家族や秘書とともに最期をみとった。

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寂聴さんとゆかりのある方々へのインタビュー連載です。随時更新しています。

 ――寂聴さんが亡くなって10カ月がたちました。

 先生がいなくなってから、こんなにむなしい日々がやってくるとは思いませんでした。この30年、ほとんど毎日、寂庵に来て、先生の料理を作って、先生といろいろな話をしてきました。今は寂庵に来ても張り合いがありませんが、お堂にまつっている祭壇の花を変えたり、お供えのご飯を作ったりしています。

 寂庵の庭には、書家の榊(さかき)莫山(ばくざん)さんが書いた「寂」の一字を彫った大きな石があります。先生は長い間、「この石が寂庵のお墓ね」と話していました。でも、5年ぐらい前だったかな、総理大臣を務めた細川護熙(もりひろ)さんがつくった信楽の五輪塔を買いました。寂庵の庭のどこに置くか、横尾忠則さんに決めてもらいました。それからです。「この五輪塔が寂庵のお墓ね」と言うようになりました。

 ――寂庵に入るきっかけは何ですか?

 私は1947(昭和22)年生まれの団塊の世代です。島根の出雲から集団就職で京都に出てきて、西陣の帯屋で住み込みで働きました。その帯屋を辞めて、別の会社に勤めているときに夫と出会い、69年に結婚しました。4年後、たまたまテレビを見ていると、岩手の中尊寺で得度する先生の映像が流れました。もちろん、先生に会ったことはありませんが、すでに人気作家でしたから「晴美さん、出家しはったんやなあ」と驚きました。

 先生と出会ったのは、先生が70歳ぐらいのころです。源氏物語の現代語訳を始めることになりました。寂庵とは別に、嵐山にマンションを買って仕事場にしていました。そのころ、料理を作る人を探していたんです。寂庵はお寺なので多くの頂きものがあります。その食材を無駄にすることなく、料理してほしいというのです。

 ――応募されたのですか?

記事の後半では、いよいよ寂庵での仕事が始まり、今も心に残る寂聴さんの言葉が紹介されます。

 寂庵のスタッフになるには紹…

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