第18回特注した「一生分の原稿用紙」、なくなるまで書き続けた寂聴さん

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聞き手・岡田匠
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馬場君江さんに聞く③

 かつて瀬戸内寂聴さんは「私は元気という病気」と語っていた。好奇心が旺盛で、趣味も多彩だった。だが、老いとともに病が増えた。京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)のスタッフで堂守(どうもり)の馬場(ばんば)君江さん(75)は、苦しみながらも書き続ける寂聴さんを支えてきた一人だ。

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寂聴さんとゆかりのある方々へのインタビュー連載です。随時更新しています。

 ――寂庵では毎月の法話や写経のほかに、どんなことをしてきたのですか。

 もう20年か30年ぐらい前になるかな、絵の教室を開いたことがあります。毎月1回、絵の指導者に来てもらいました。個人的に習うのではなく、一般の人たちも30~40人ぐらいがお堂に集まって、絵画教室にしました。先生は水彩画や仏画を描いていました。

 先生は好奇心が旺盛なので、いろいろなことに関心を持ちます。しかも、その趣味が高じて、本格的に、大々的になるんです。やりたいことは、何でもやっていました。

 ――仏画のほかにも、石仏を彫っていましたよね?

 「尼さんとして何かしなければ」という気持ちが強かったと思います。先生が住職を務めていた天台寺(岩手県二戸市)に関係のある男性が石仏を彫っていて、その男性に習っていました。今も寂庵の庭には、先生が彫った石のお地蔵さんが1体、まつってあります。

 土仏も本格的でした。もちろん土から焼いて作ります。窯まで買ってきて、寂庵に置いてありましたから。赤土をこねて、彫って、焼いて、お地蔵さんを作りました。「1千体作って、法話にきた人たちに抽選であげたい」と言っていました。1千体までは作っていないと思いますが、けっこうな数を作っていました。

 ――俳句も続けていましたが、どんな様子でしたか。

記事の後半では、「一生分の原稿用紙」を使い切った寂聴さんの衰えぬ創作意欲について語られます。

 先生は東京女子大学の出身で…

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