あの日、遊園地で会った伯父 望郷の富士の絵が語る隔離60年の生涯

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阿久沢悦子
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 「遺品は今日中に持ち帰ってください。残りはこちらで処分します」

 10年前の秋、東京都東村山市にある国立ハンセン病療養所多磨全生園。職員にそう言われて、女性は伯父が暮らしていた部屋を見回した。一角に絵の具や筆、パレットとともに、水彩画が十数枚残されていた。

 東京からは見ることができない見事な富士山の絵が何枚もあった。胸を突かれた。描いた伯父は故郷の静岡に帰りたかったのだろうか。

 女性はそれらの絵を自家用車に積み込み、持ち帰った。

 その日から、ハンセン病で60年間、隔離生活を送った伯父の足跡をたどる「旅」が始まった。

22歳でハンセン病を発症、療養所で終えた生涯

 女性は静岡県藤枝市の長田富美子さん(57)。伯父は母(92)の兄だ。

 伯父は1927年、同県焼津市の漁村に生まれた。尋常小学校を卒業後、14歳で漁船の乗組員になった。

 22歳でハンセン病を発症し、3年後に同県御殿場市の駿河療養所に入所。晩年、腎臓を患い、人工透析を受けるために71歳で多磨全生園に移った。2012年、85歳で亡くなった。

 長田さんは、支援者らとともに、二つの療養所で伯父を知る人から話を聞いた。持ち物は「処分」され、部屋は空っぽに。唯一の近しい肉親である母は語りたがらない。「このままでは伯父さんの存在自体がなくなってしまう」。焦りに似た気持ちがあった。

 厳しい差別から、療養所では多くの人が本名とは異なる園名を使う。伯父も本名ではない「望月章」を名乗り、「もっちゃん」と呼ばれていた。

ハンセン病の伯父が描いた富士山。そのふもとにある遊園地で、長田さんは幼い頃に「不思議な出会い」を経験します。記事後半では、ハンセン病の隔離政策がもたらした家族や故郷との分断について紹介します。

30年の空白を越えてつながった記憶

 伯父は絵画が好きで、風景画

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