自己模倣の迷宮に入らず変化し続けた 歌人・河野裕子をしのぶシンポ

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佐々波幸子
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 2010年に64歳で亡くなった歌人・河野裕子(かわのゆうこ)さんをしのぶシンポジウムが10日、京都市内で開かれた。河野さんが所属した塔短歌会が主催し、約400人が参加。ゆかりの歌人たちが河野さんの評論や作品を取り上げ、他者の歌を読む際も、自身で歌を詠む際も、そのときの実感に正直に向き合い、変化し続けた姿を浮き彫りにした。

 河野さんは京都女子大学在学中の1969年、戦後生まれの歌人として初めて角川短歌賞を受賞した。86年から「塔」主宰を務めた夫の永田和宏さんとともに若手歌人を育て、歌壇の第一線で活躍。最後の10年は闘病しながら歌をつくり続けた。

 塔短歌会を現在主宰する吉川宏志さんは、冒頭のあいさつで「人の熱気があるところに行きなさい。自分だけで歌をつくっていると狭くなる。人から刺激をもらって歌を太らせていくことが大事」と河野さんに言われたという思い出を披露。「若い頃はよく怒られた。激しい心とユーモアがあり、すごく寂しい表情をされることもあった。幅の広い、人間的な魅力をいまでも感じる」としのんだ。

 永田さんは、河野さんの十三回忌を迎えた節目に、大学時代によくデートした市内の法然寺に墓を建てて納骨し、参道に2人の相聞歌を刻んだ歌碑も建てられたことを報告した。この春『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』を出版。執筆する際、若き日の河野さんの日記をたどり、当時の歌の背景を初めて知ったという。そのときの思いを「歌を始めたころ、作者の情報はできるだけ除外するよう教えられたが、背景を知ることが歌の読みを深くすることはある」と語った。一方で、「これまで論じられた解釈を否定するものではない。読みの多様性、読みの驚きを示していただくことは、歌を読むときに一番大事なこと」と続けた。

 学生時代から河野さんを知る花山多佳子さんは「河野裕子の読み」をテーマに講演。河野さんが50歳前後に二・二六事件を詠んだ歌で知られる斎藤史(ふみ)の作品を百首鑑賞して一冊にまとめた際、20年前に傾倒していた作品を良いと思えず、「評価のずれ」に苦しんだことを紹介した。虚心に一首一首に向き合った結果、地味だが味わいのある歌が並び「有名な歌がほとんど挙げられていないことに驚いた」と花山さんは語った。

 また、作歌の現場で最も苦し…

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