国葬の代償(第1回) 衝撃
27日午後2時27分、東京都千代田区の日本武道館。首相の岸田文雄は、「故安倍晋三国葬儀」の葬儀委員長として、追悼の辞を読み上げた。安倍の遺影を見上げ、こう言葉を贈った。「世界中の多くの人たちが『安倍総理の頃』『安倍総理の時代』などと、あなたを懐かしむに違いありません」
秋晴れのなか、会場近くの献花台には朝から長蛇の列が出来た。一方、国葬に反対するデモも行われた。世論が分断されたまま、国葬は当日を迎えた。
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連載「国葬の代償」(全5回)はこちら
安倍晋三元首相の国葬が執り行われました。しかし、世論の賛否は割れたままで、内閣支持率も急落。岸田文雄首相は代償を払うことになりました。舞台裏で何が起きていたのか。5回にわたってお伝えします。
参院選の投開票日を2日後に控えた7月8日午前11時半ごろ、安倍は奈良市の近鉄大和西大寺駅前で自民党候補の応援演説にたっていた。
「彼はできない理由を考えるのではなく……」
聴衆に向けて左手の拳を振り、そう発した直後、背後で銃声が2発響いた。周囲から悲鳴があがった。
その一報を岸田が受けたのは、遊説のため山形県内を移動中の車内だった。直後に到着した道の駅での応援演説は、2時間前の別会場とはまるで様子が違っていた。
「世界において食料が……の価格が」
「山……山形の基本、基本の……」
何度も何度も、言葉を詰まらせた。
岸田は残りの遊説予定をとりやめ、自衛隊のヘリコプターで首相官邸に戻った。
午後2時45分ごろ、緊張感に包まれた官邸エントランス。待ち受ける記者団のもとへ歩み寄った。岸田の口元は震えていた。
「決して許すことはできない。最大限の厳しい言葉で非難する」
夕方、安倍の死亡が確認された。再び記者団の前に現れた岸田は涙を浮かべていた。
「誠に残念で言葉もありません」。力なく語った。
首相周辺は官邸内での岸田の様子について「かなりエモーショナル(感情的)になっていた」と明かした。
7月10日、参院選投開票日。岸田の姿は東京・永田町の自民党本部にあった。次々と当選確実の報が寄せられ、そのたびに岸田は候補者の名前が書かれたホワイトボードにピンク色の花をつけた。だが、笑顔はなかった。
同期の因縁 ライバルの宿命
岸田と安倍は、1993年の衆院選で初当選。岸田は第1次安倍政権で沖縄・北方担当相として初入閣し、第2次政権では4年あまりもの間、外相として支えた。
苦い思いもした。
「ポスト安倍」として期待されながら、2018年の自民党総裁選では迷った末、立候補を見送った。安倍の3選を支持し、「優柔不断」と批判を浴びた。悔しさで寝られず、議員宿舎で朝まで思いにふけった。
安倍が退陣した20年の総裁選に立候補したが、安倍は官房長官を務めていた菅義偉の応援に回り、惨敗。「岸田は終わった」と言われた。
「安倍さんとは政治信条も哲学も違う」
岸田は「安倍の『禅譲』を狙っている」と指摘されるたびに、そう抗弁してきた。党内最大派閥の「清和政策研究会」(安倍派)より、自身が率いる伝統派閥「宏池会」(岸田派)の方が、党の保守本流だとの自負もある。
しかし、憲政史上最長の政権を率い、退陣してもなお、党内外に巨大な影響力を持つ安倍には気をつかわざるを得なかった。
念願の座についてからも、こまめに電話をかけ、時には議員会館の事務所に出向いて面会した。安倍は財政再建に向けた動きを強く牽制(けんせい)し、防衛費の大幅増額を声高に主張。佐渡金山遺跡(新潟県佐渡市)の世界文化遺産登録をめぐっては、推薦見送りを検討する岸田に直接電話をかけて方針転換を迫った。ただ、はばかることなく政権に異を唱える一方で、矛を収めて、岸田への反発を抑え込む役割を果たしてくれた。
党幹部、経済界、列をなす人々…
「なぜ官邸で半旗を掲げていないんだ」
岸田の携帯電話には、参院選…