第20回周恩来と汗かいた父の予言は的中した もう一度「民をもって官を」

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聞き手・林望
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 50年前、周恩来首相の右腕として日中の国交正常化交渉に奔走した張香山氏は、2009年に他界するまで両国関係の将来に心を砕き、時に厳しく日中双方に警鐘を鳴らしました。その言葉が今日の私たちに投げかけるメッセージとは。張氏の息子で、国際戦略研究者の張沱生さんに聞きました。

張沱生さん

チャン・トゥオション 1949年北京生まれ。中国国防大学戦略研究所研究員、駐英大使館副武官などを歴任。現在は北京大学国際戦略研究院理事などを務める。父の張香山氏は中日友好協会副会長なども務め日本政府から勲一等瑞宝章を受けた。

 ――1972年の国交正常化の前後、張香山氏はどんな思いで仕事に取り組んでいたのでしょうか。

 当時、軍役に就いていて河南省の部隊にいたため、父の姿を見ていません。ただ、母の手紙から、ものすごく忙しそうだということは伝わってきました。

 国交正常化のことは、当日にラジオで知りました。共同声明の署名式の列席者として父の名前が紹介され、部隊の上司に「おい、おまえのオヤジさんじゃないか」と驚かれたのを覚えています。

 1930年代に日本留学した父は、37年に抗日戦争に加わるために帰国し、陝西省延安に拠点を置いていた共産党の外交部門に配属されました。中央外事組というその組織の上司が、周恩来だったのです。

 新中国建国後、父は党の外交活動を担う党中央対外連絡部の幹部を務めました。しかし、文化大革命に巻き込まれ、長らく外交の表舞台には出ませんでした。

 71年に疑いが解かれると、すぐに周恩来に呼ばれて外務省顧問の肩書で日本との交渉に加わり、共同声明の起草チームにも加わりました。

 私は79年に部隊勤務を終え、国際戦略を研究するようになりました。以来、日本のことについては父に教えを請うようになったのです。

 父は「日本との国交正常化は本当に大変なことだった。双方の指導者と有識者たちの血を吐くような努力の結果なのだ」と言いました。「両国のリーダーの戦略眼、歴史への責任感、政治的な勇気と知恵は、後世の者がずっと学び続けていくべきものだ」ともよく言っていました。

 とりわけ、「求同存異(小異を残して大同につく)」という考え方を唱えた周恩来の果断さと、部下への指示の細やかさには深い敬意を抱いていました。

 周恩来を信じて支えた毛沢東主席の戦略眼についても、よく語っていましたね。

リーダーたちが語った日本

 ――毛の戦略眼とは、どんなものだったのですか?

 日本の人民と日本の軍国主義

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