第24回「私は元気という病気」 そういう寂聴さんは「元気教の教祖」
杉谷義純さんに聞く⑤
京都・三十三間堂本坊妙法院の杉谷義純(ぎじゅん)門主(80)は、瀬戸内「晴美」から「寂聴」になったその日を知る。1973年11月14日の得度から半世紀にわたって親交を深め、寂聴さんを「元気教の教祖」と表現する。多くの人に慕われた寂聴さんの魅力を聞いた。
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寂聴さんとゆかりのある方々へのインタビュー連載です。随時更新しています。
――寂聴さんが生きていれば、今年11月14日は49回目の得度記念日でした。
人生の半分は「晴美」として過ごし、もう半分は「寂聴」として生きたんですね。彼女には得度のときから、それなりの理由があるので、こちらから根掘り葉掘り聞くのは控えてきました。興味があれば聞いてくるだろうし、余計なことは干渉せずに深入りはしない。そのほうが本人の目的に沿うと考えました。
実際、得度のあと、しばらくは何も言ってきませんでしたが、お坊さんとして活動していくうちに不便なことがあったり、壁にぶつかったりすることも出てきて、だんだんと相談される機会が増えました。それが、いつの間にか、死んだときは一切をお願いしている、ということになったんです。憎めない、おもしろい人ですよ。
――京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)で毎月、法話を続けたのは「僧侶としての責務」と話していました。
黒白はっきり言って、「ちゃめっ気にあふれ、すべてに本気だった」。記事の後半では、99歳まで元気だった寂聴さんの法話を、兄弟子が振り返ります。
興味本位といいますか、定年…