第3回「冷戦の残滓を壊すNSSまとめた」 安倍元首相のブレーン・兼原氏

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聞き手 編集委員・藤田直央
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 今年の年末、国家安全保障戦略(NSS)が改定される。「国益を長期的視点から見定め、国際社会で進むべき針路」を定め、国のあり方を示す重要な文書だ。

 文書は9年前、第2次安倍政権の発足翌年に初めてできた。当時、策定に深く関わった兼原信克・元内閣官房副長官補は、戦後日本にこうした文書がなかったことへの長年の疑問から取り組んだと証言する。当時の舞台裏や、今回の改定に望むことを聞いた。

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岸田政権は年内に外交・防衛政策の基本方針「国家安全保障戦略」など三つの文書を改定します。今回の改定は日本の安全保障の大転換になるかもしれません。改定に関わる関係者、有識者に様々な視点から聞きました。

――今のNSSは2013年末に初めて閣議決定されました。どのような経緯だったのですか。

 「1981年に外務省に入って最初の配属が経済局でした。日本経済戦略という紙を書いたら、上司に『兼原君、戦略という言葉は外務省では使わないんだ。戦という字が入っているだろ』と言われ、疑問に思いました。外交と軍事でこの国をどう守るかという紙がないのは恥だと、ずっと考えていました」

 「安倍晋三首相の下でともに内閣官房副長官補になった防衛省出身の高見沢(将林)さんと、日本にはNSSが必要だ、書こうと意気投合して、2013年夏ごろ安倍首相に申し出て、『やれ』と言われた。安倍首相の関心は外交・防衛の司令塔のNSC(国家安全保障会議)の創設だったので、それに合わせてまとめました」

――そもそもそれまでなぜNSSがなかったのでしょう。

 「終戦後に米国とソ連が対立する冷戦になり、政界が割れました。自民党社会党の55年体制では自衛隊と日米同盟への姿勢が正反対で、国会で議論ができなかった。加えて禍根を残したのが、防衛政策の指針として1976年に初めて閣議決定された防衛計画の大綱で『基盤的防衛力』構想が採られたことです」

 「日本が力の空白にならないよう、『限定的かつ小規模な侵略』を防ぐ必要最小限の防衛力を持つ。実際はソ連の北海道侵略に対し米軍の来援まで持ちこたえるという想定でしたが、特定の脅威に備えるものではないと説明された。これで政府内でも自由に議論できなくなり、戦略的思考が死んでしまいました」

――89年の冷戦終結、91年のソ連崩壊後はどうでしたか。

 「国内の議論の『冷戦状況』はなかなか変わらなかった。それでも宮沢政権がPKO(国連平和維持活動)に自衛隊を派遣する法律を、小渕政権が日本への攻撃に発展しかねない周辺事態で米軍を後方支援する法律を、そして小泉政権が米国の『テロとの戦い』に自衛隊が協力する法律を通し、土壌が変わっていきました」

 「世代が変わったことも大きい。冷戦終結の頃は、社会の中心の40~50代は終戦前後の生まれで、かつてのような軍の独走を危ぶむ風潮がまだ強かった。安倍首相は戦後外交の総決算を掲げましたが、同様に唱えた80年代の中曽根康弘首相の時のように強い反発は出なかった。新しい世代に受け入れられたのでしょう」

――最初のNSSをまとめる際に意識したことは。

 「冷戦の残滓(ざんし)の議論をぶっ壊して、国際社会の力関係の中で日本の置き場所を決め、敵・味方をはっきり意識して書くことです。外務省が緩い案を出してきたので、防衛省も入れて何度も書き直した。味方は米国、同じ米国の同盟国の韓国、豪州、ASEAN(東南アジア諸国連合)、欧州、中東と並べていきました」

 「ただし、NSSでは、一に…

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    藤田直央
    (朝日新聞編集委員=政治、外交、憲法)
    2022年11月9日6時54分 投稿
    【解説】

    書きました。旧知の兼原さん、私からするとタカ派ですが、それ故?に第2次安倍政権の外交・安保政策をブレーンとして支えました。その立場からの貴重な証言に満ちたインタビューです。「戦略」と言えば軍事だと上司に言われ自由に語れなかった兼原さんの19

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