第27回「死んだあと、3年でいいから会報を」 寂聴さんの思い、機関誌創刊
竹内紀子さんに聞く③
瀬戸内寂聴さんは自らの経験を隠さずに小説に書いた。ただ、すべてを書いたわけではない。故郷の徳島で開いた文学塾「寂聴塾」の塾生の一人、竹内紀子さん(64)は「何でも話してあげる」と言われるほど信頼されてきた。一周忌にあわせ、寂聴さんを顕彰する機関誌「寂聴」を作った。
連載「寂聴 愛された日々」はこちらから
寂聴さんとゆかりのある方々へのインタビュー連載です。随時更新しています。
――近年の寂聴さんとの思い出を教えてください。
亡くなる2年前、先生から「もっと京都に来なさい」「何でも話してあげるから何でも聞きなさい」と言われるようになりました。京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)に毎月初めに1週間ほど泊まり込んで、じっくりと話を聞くことが決まっていたんです。そしたら新型コロナで行けなくなりました。本当に残念でなりません。
先生は自らの体験を自らの作品に書いています。すべてを書いているように見えますが、すべてを書いているわけではありません。言えないこと、書けないことがありました。それを誰かに話しておきたかったんです。亡くなる前に本当のことを言っておきたかったんだと思います。
――たとえば、どんなことですか。
ご両親や恋人のことだったのではないでしょうか。少しは聞いていますが、先生が書けなかったことだから、言えません。
――家族のことは、あまり書いていませんよね。
寂聴さんは亡くなったあとに会報を出すことを塾生に託していました。命日の11月9日に向けて、機関誌「寂聴」を創刊するまでの日々が記事の後半で語られます。
先生は戦時中、お見合い結婚…