商店街の祭り立ち上げた先輩急死 後輩「続けたい」と遺志継ぎ開催へ
福岡県久留米市の商店街で11年前、若い経営者が呼びかけて始まった祭りがある。
ただ、実行委員長を務めてきた男性は昨年8月、急死。働き盛りだった。秋に開催していた祭りは、新型コロナウイルスの影響を受けた一昨年に続き、2年続けて中止になった。
今年はどうするのか――。
引き継いだのは、男性を慕っていた老舗の若い4代目だった。
JR久留米駅前から東に延びる「問屋街」。かつては繊維問屋が軒を連ね、通りには人があふれたという。
今は古い商店や飲食店も残るが、マンションや住宅、駐車場が目立ち、昔の面影はない。
祭りの中心だった西原健太さんが社長を務めた「西原糸店」は、その通りにある。
古い商店街に現れた若者 目指した活性化
1917(大正6)年創業。もとはタオルや軍手、エプロン、小物などを小売店に卸す問屋だったが、今は久留米絣(かすり)の小売りが中心だ。
業態転換のきっかけは、2002年に亡くなった2代目の決断だった。亡くなる前、「次は三男の妻と、その長男に任せる」と言い残していた。
「三男の妻」とは、健太さんの母、西原佳江さん(69)。
「その長男」が健太さんだった。
佳江さんは、2代目の決断について「問屋を続けてきた自分の子どもたちでは、変化できないと考えたんでしょう」と話す。
それまで、経営について話し合う家族会議に「司会役」として参加していた佳江さんは、店にはほとんど顔を出していなかった。
健太さんは当時、久留米大学商学部の4年生。京都に本社がある呉服店への就職が決まっていた。
「久留米弁丸出しの健太は、営業の外回りでお客さんに会う度に『久留米と言えば久留米絣よね』と言われ、久留米絣はすごいと思ったようです」。佳江さんは振り返る。
健太さんは04年11月に戻り、親子でそれまでの問屋を徐々に変えていった。今につながる久留米絣の店だ。
健太さんは、もっと大きなことも考えていた。「この通りや、久留米の商店街全体を活性化させることが店の繁栄にもつながる」といつも口にしていた。
「この通りは変わらない」が徐々に
九州新幹線の全線開通を翌年に控えた10年、健太さんは「活性化のために何かしたい」と久留米商工会議所に相談した。
「協力してくれる商店主を3人連れてきたら知恵を貸そう」
そう言われたという…