ロック語りはなぜ暑苦しいのか 押しつけがましさの背後にあるもの
朝日新聞の音楽担当デスクとして、音楽の原稿をチェックしている。先日、職場で記者と「ロックとはかくあるべし」などと大声で議論していたのだが、数日後、同僚からこう耳打ちされた。
「あれ、周囲が暑苦しがっていたよ」
ロック語りは、時に周囲を不快にさせてしまう。やっぱりそうなのか……。うすうす知っていたが、改めて突きつけられるとへこんでしまう。
それにしても、なぜ「ロック語り」は、こうも忌み嫌われるのだろうか――。桃山学院大学の長﨑励朗准教授(メディア社会学)は、ロックを語る際、ある種の押しつけがましさがついて回るようになったことが関係しているのではないか、と指摘する。(聞き手・河村能宏)
ながさき・れお 1983年、大阪府生まれ。著書に『「つながり」の戦後文化誌: 労音、そして宝塚、万博』『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学』など。
――先日、社内でロック談議をしていたら、周囲から煙たがられました。ロックって嫌われているんだなあ、って。
「それはロック自体というよりも、ロック語りが嫌がられているということですね。ロックについて熱く語るのを嫌がる人の感覚を言葉にするなら『誰でも語れることに大げさな意味づけをしていてくどいし、暑苦しい』みたいな感じじゃないでしょうか」
「だとすると、それはロックというジャンルに対する捉え方が人によって大きく二つに分かれてしまっていることが原因かもしれません」
――というと?
「趣味に関するいろんな調査で示されていますが、『趣味は何ですか?』と複数回答可で聞くと、音楽を挙げる人がほかの趣味に比べて圧倒的に多いんです。つまり誰もが『いっちょかみ』できる、と。ところが、もう少し込み入った話、とりわけ意味づけみたいな話になると途端に入りづらくなる。この落差が問題だということですね」
――なぜ、そんな落差が生まれているんでしょうか?
「個人的な見解ですが、この落差の起源は1980年代のバンドブーム前後にあるんじゃないかと思っています。ロックの内容面の定義は色々ありますが、日本の文脈では、この時期以後に流行(はや)った主に自作自演(自分で作って自分で演奏する)の音楽の多くを『ロック』と呼んだと考えた方が自然だと思うんです。70年代の『ニューミュージック』みたいなジャンル感ですね」
――いわれてみればそんな気がしますね。
「ところが、当たり前ですが、それ以前にも熱心なロックファンは一定数いたわけです。そこでは、洋楽を中心にディープな議論が交わされていました。この人たちや、あるいはその系譜を内面化している人にとって、大衆化して以後のロックファンは薄っぺらく見えてしまいがちです」
「現在、ロック語りが暑苦しいものだと嫌がられるのは、ハードルが下がり、大衆化して以降の感覚でこうしたサブカル的な『ロック教養主義』とも言える語りを聞かされているからではないでしょうか」
――教養主義? 「最近の若者は教養がない」みたいに使われるあの教養ですか? 「常識的な知識を大事にしよう」みたいな……。
教養主義とはそもそも何なのか。それがロック語りとどう関係するのか……。記事の後半では、日本を代表するロック雑誌「ロッキング・オン」にも触れながら、ロック語りを徹底的に分析します。
森高千里も「ロック語り」を指摘していた
「そういう語法はどっちかと…
- 【視点】
■「ロック語り」は面倒くさいが、語る勇気、緊張感も理解しておきたい 「おれは、うざい!!!」ルフィ風に研究室で、思わずこう叫んでしまった。いや、この『ONE PIECE』の名セリフへのオマージュも、ますます「うざい」ということになるのだ
- 【視点】
1970年では、大卒初任給4万円に対しLPレコードが2000円で、洋楽はLPが1万枚売れれば好調の部類だった。海外渡航者数も1969年は49万(2019年は2008万人)だから、外国の情報も限られていた。もちろん、インターネットもYouTu