長期政権、談合で逮捕も 知事たちが就任時に抱いた思いとその後

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この連載は大畠正吾 大野博が担当します
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知事の力 〈プロローグ 知事の系譜〉

 宮崎県知事選の投開票まで1カ月に迫った。戦後、選挙で選ばれた宮崎の知事は現職の河野(こうの)俊嗣氏で8人目。6期という長期政権が2人、官製談合などで逮捕された知事も2人いる。彼らはどんな時代に、どんな思いで県政のトップに就いたのか。

 初期の3人はすべて1期で交代した。日本国憲法地方自治法が施行された1947(昭和22)年。初の公選制の知事選には4人が立候補し、官選知事の経験がある安中(あんなか)忠雄氏が当選した。翌48年には県議会議員選挙もあり、安中氏は第1回県議会の開会式で「改めて知事に選任され、その責任のいっそう重かつ大であることを痛感する」と述べた。

「何が県民の幸福であるか」

 サンフランシスコ講和条約が調印された51(昭和26)年、決選投票の末に元農林省局長の田中長茂(ながしげ)氏が当選した。県議会で「(県議の)みなさんと私とは、一体となり何が県民の幸福であるか、発展的な県政は何であるか、良識で判断して実現したい」とあいさつした。田中氏は細島臨海工業地帯や綾川総合開発に道筋をつけた。

 55(昭和30)年には、元外交官で、一時公職追放を受けていた二見甚郷(じんごう)氏が3人目の知事に当選。県議会で、県の経済水準が全国最下位だとして「県民の世論を傾聴して市町村との連絡協調をはかり、県政振興の大目標に総力を結集したい」と団結を呼びかけた。二見県政では戦時中に強制統合された水力発電所の処理問題が解決した。

 59(昭和34)年、4人目の知事に就任したのは二見県政で副知事だった黒木博氏。初の県議会で、「私の目標は『福祉宮崎』を建設して県民の生活をより豊かにすることにある」と後進県からの脱却を宣言した。6期目の79(昭和54)年、県発注工事に絡んで業者から3千万円を受け取ったとして逮捕され、辞職した。一審は有罪、高裁で無罪判決が出て確定した。

「気持ちは年齢とは関係ない」

 黒木氏辞職後の79年に当選…

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