昨年2月に国軍がクーデターで実権を握って以降、内戦が続くミャンマー。民主派の自衛組織に入り、国軍とジャングルでゲリラ戦をたたかった男性(31)が大阪で取材に応じた。どのように戦い、なぜ日本に逃れてきたのか。若くして亡くなった戦友への思いとは――。
ミャンマー・ヤンゴンの銀行に勤める電気技師だった僕は、クーデターの4カ月後、生まれて初めて銃を手にしました。
(東部の)カレン州の山中でゲリラから訓練を受けたときです。
引き金を引くのにはすごく強い力が要ると思っていた。なのに、指をちょっと押しただけで「バン!」。
これで人の命を奪えるんだ、と怖くなりました。
《クーデター以降、国軍の弾圧で多くの市民の命が奪われてきた。民主派による国民統一政府(NUG)が作った国民防衛隊(PDF)はいまも各地で国軍と戦闘を続けている》
僕はクーデター後すぐ、労働組合の仲間と共に国軍に抵抗する不服従運動に加わりました。
目の前で撃たれた医学生
PDFに入ったのは昨年3月14日の出来事がきっかけです。一緒に国軍への抗議デモに参加していた男子医学生が僕の3メートル前で国軍に撃たれ、亡くなりました。まだ18歳でした。
駆け寄って助けようとしたのですが、銃撃が激しく続き、近寄れませんでした。
僕は武器を取って戦うと決意しました。もちろん武器なんて持ちたくなかったけど、非暴力のデモを続けても、いずれ殺されるとわかったからです。
カレン州でPDFに加わっていた友人に連絡し、昨年5月中旬、カレン族のゲリラがヤンゴンに迎えの車を手配してくれました。
いとこと2人で早朝、南部のある街に向かい、そこで各地から集まった人たちと合流しました。
カレン州の山中のゲリラの村に入り、3週間ほど過ごした後、山を登ったり匍匐(ほふく)前進をしたりと基礎的な軍事訓練を受けました。
部隊では18歳から40代の男女約20人と共に寝泊まりしました。貧しい家庭で育ち、10代から日雇い労働を続けてきた男性が多かった。国軍に家族や親戚を殺された人もいました。
1カ月経ち、国軍の戦闘機がよく飛んでくるようになった。僕たちの中にスパイがいたのです。
みんなに愛されていた18歳の仲間、村人を助けた後に
やがて国軍が大勢で攻めてき…