江沢民氏が磨いた英語力 晩餐会で歌った「ラブ・ミー・テンダー」

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北京=林望
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 中国の江沢民国家主席が30日、死去した。江氏が中国の最高指導者に上り詰めた経緯で欠かせないのが、1989年の天安門事件だ。当時、彼が残した逸話からうかがえるのは、中国の指導者と米欧の距離感の変化だ。

 死去した30日、共産党や軍などは連名で「全党、全軍、全国の各民族の人民に告げる書」を発表した。政権として、亡くなった指導者の功績を定めるものだ。

 青年時代から引退までの足跡を記した文章は、天安門事件後に中国が孤立した時代、江氏が「国家の尊厳や安定を守り、経済建設という軸を揺るがさず、我が国の改革開放に新たな局面を開いた」などとたたえた。

 民主化を求める学生らが天安門広場を埋めた89年春、江氏は上海市トップの書記だった。北京で対応に当たっていた趙紫陽総書記は5月末に、学生らの訴えに理解を示したなどとして失脚。直後に軍が発砲して運動を弾圧した後、鄧小平らが次のリーダーとして急きょ抜擢(ばってき)したのが江氏だった。

 なぜ江氏だったのか。理由ははっきりしないが、北京と同じく運動が盛り上がっていた上海での対応への評価があったことは想像に難くない。

 「告げる書」は「89年の初夏に重大な政治的波風が起きた時、(江氏は)党中央の決定を支持・実行して、広大な党員や民衆に寄り添って力強く上海の安定を守った」と言及した。

 江氏は当時、何をしたのか。中国政府の閣僚級幹部だった父を持つ改革派知識人から、こんな逸話を聞いたことがある。

 天安門事件の起こる少し前、上海の名門、復旦大学でも多くの学生がキャンパスにとどまり、民主化を訴えていた。事態を危惧して視察に入った江氏は講堂に入り、集まった学生らから激しいブーイングを受けたという。

 その時、江氏は大胆な行動に出た。

 ステージに上がった江氏は…

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  • commentatorHeader
    安田峰俊
    (ルポライター)
    2022年12月1日7時56分 投稿
    【視点】

    天安門事件当時、浮き足立つ学生を前にリンカーンの演説を英語で話して黙らせた話、大好きです。 それぞれ経歴は違うとはいえ、台湾の李登輝然り韓国の金大中然り、この世代のアジアのエリートが持つ無骨な教養主義の匂いが好きです。江沢民が亡くなっ

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    吉岡桂子
    (朝日新聞編集委員=中国など国際関係)
    2022年12月1日10時13分 投稿
    【視点】

    私は上海特派員時代、江氏の上海の自宅近くに住んでいました。彼が国家主席を退いた直後でした。江氏の滞在中は近くの公園や道路にも警察の車や私服警察が増えるので、なんとなく分かりました。中国取材を本格的に始めたころで、現地の中国の人々がけっこう平