松代城跡で武田氏ゆかりの「三日月堀」痕跡確認
戦国時代、武田信玄が上杉謙信との戦いに備えて築いた国史跡の松代城跡(長野市松代町)の発掘調査で、武田氏の築城で特徴的な「三日月堀」の痕跡が確認された。長野市教育委員会は2027年ごろまでに遺構を幕末期の姿で可能な限り復元し、学習や観光の拠点として活用することを目指している。
市教委が11月19日、現地説明会を開いて調査の成果を発表した。
松代城は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信による川中島の合戦の際、武田氏が前線基地として築いた「海津(かいづ)城」が始まりとされる。1560(永禄3)年ごろに普請が完了。その後、二の丸、三の丸、石垣などが整備された。
江戸時代の1622(元和8)年に、真田信繁(幸村)の兄、真田信之が上田から移封(いほう)されてからは、明治期に廃城になるまで真田氏の居城となった。
本丸の東側と南側には、「三日月堀」と「丸馬出し」があったことが幕末の絵図などで伝わっている。三日月堀とは、二の丸などの入り口を三日月状に丸く覆うような形をした堀で、その堀に囲まれた内側の丸馬出しとともに、敵から城を守る防御施設。いずれも武田氏の甲州流築城技術の特徴とされ、武田氏館(甲府市)の大手口などでもその跡が見つかっている。
本丸周辺は廃城後、農地や公園となっていたが、1981年に約6万5千平方メートルが国史跡に指定され、市教委は第1期整備を開始。2003年までに太鼓門や石垣、土塁などを復元した。
ただ、第1期整備当時、三日月堀や丸馬出しがあったとされる場所には長野電鉄屋代線が通っており、発掘調査ができていなかった。
12年に屋代線が廃線となって、跡地が市の所有地になった。15年に跡地を含めた約1万7千平方メートルが国史跡に追加され、市教委は27年までに三日月堀や丸馬出しなどを復元する第2期整備に着手した。
整備に伴って、今年度は城の南側で東西70メートル、南北40メートルとされる三日月堀を発掘した。地層から堀の形を調べるためにトレンチ(溝)を2カ所掘ったところ、三日月堀の痕跡が確認されたという。ただ、その位置は、絵図から想定したより数メートル、西側に広がっていたことがわかった。
さらに幕末期の土の中からは、多数の松ぼっくりが見つかった。市教委文化財課の阿部紀佳さんは「堀に沿って下り松が植えられていた絵図が残っている。その松から落ちたものだと考えられる」と話した。遺構は埋め戻して保存したうえで、調査の終了後、復元や整備を進める。
市教委は第2期整備の参考とするため、古い写真や絵図などの資料を探している。情報提供は市教委文化財課(026・224・7013)へ。(菅沼遼)
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