「幸せかどうかは自分が決めること」 息子の死と豪快お母さんの親心
大きなサングラスがよく似合った。大好きな「ハイライト」のたばこ5箱を手にして、いたずらっぽく笑った。奔放な発言でときに周囲をハラハラさせながら、常に周りには人があふれていた。
1937年、東京・八重洲口のはんこ屋「三舟印房」の7人兄弟の真ん中に生まれた。戦争が始まると、神奈川・葉山に移り、青年期を過ごした。戦時中の話は「防空壕(ごう)に入るとお菓子が食べられた」くらい。戦争の負の記憶についてはあえて多くを語らなかったが、「ものは大切しなさい」とよく語った。
戦後は、東京で再開したはんこ屋を手伝いながら、高度成長期で活況に沸く都会のど真ん中で青春を謳歌(おうか)した。ドレスは銀座マギー、靴は銀座かねまつ。銀座の名だたるブランドを着こなし、当たり前のように朝まで飲み明かしたという。
21歳のころ、ギタリストだった兄のバンドに、ドラマーとして手伝いに来ていた4歳年上の夫、加藤光昭(てるあき)さん(2002年死去)と出会う。7年間交際し、28歳で結婚した。
後に、光昭さんとの交際中も5人とお見合いしていた、などと明かし、家族を驚かせた。「花屋の男が一番ハンサムだったけど、朝が早いから無理だわ」。光昭さんが獣医師の資格をとったことが結婚の決め手だったという。その後、光昭さんが住む船橋に引っ越した。
5歳差と7歳差で3人の子どもを産んだ。ひとり一人をかわいがる、本人いわく、「フランス式子育て」だった。
好きなことはやめなかった。次女の都容美(とよみ)さん(45)をおぶって錦糸町近辺の高級ホストクラブへ行き、飲みかけの酒瓶を育児バッグに入れて持ち帰ることもあった。お気に入りはキリンビールで「キリンさん」と愛称をつけ、亡くなる3年前くらいでもグラスで5杯は飲んでいたという。長女で、父と同じく獣医師になった千香子さん(52)は「とにかく豪快。野良猫のようなたくましさがあった」と語る。
光昭さんは1973年、海軍軍人で馬術家でもあった父由来の「軍隊式馬術」を受け継ぎながら、船橋市に夢だった船橋乗馬クラブ(現在は千葉市若葉区のちばシティ乗馬クラブ)を設立した。
奔放な二三子さんにも耐えがたい出来事が起きたのは85年のことだ。3歳から馬術を始め、日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大、東京都武蔵野市)で馬術部員だった長男の貴稔(たかとし)さんが、競技馬に胸を蹴られる事故で亡くなった。19歳の若さだった。
「パパが馬になんか乗せたから」。夫を責め、仏壇の前でぼーっとする日々が続いた。
大勢の前では気丈に振る舞ったらしい。事故直後にあった大学の学園祭では、大量のもつ煮込みを作って提供した。「お陰様で馬術部のテントは大盛況でした」と、長男の1学年先輩だった海宝久敬(かいほうひさたか)さん(58)は振り返る。
事故後も、馬術部の若者たちは毎日のように加藤家に寄った。「いつ行っても誰かしらいる家だった」(海宝さん)
からあげ、手羽先、もつ煮、加藤家では標準サイズだったという巨大なおにぎり。二三子さんは、若者たちのために得意料理をキロ単位で用意し、自身の息子のようにかわいがった。
乗馬クラブでは、草むしりにいそしむ程度だったが、夫と、ちばシティ乗馬クラブ代表を引き継いだ海宝さんがクラブ経営や馬の調教方法をめぐって議論になった時には、「やってくれると言っているんだから任せてあげなさいよ」と海宝さんの肩を持った。息子の命を奪った存在でもあり、夫の生きがいでもある馬。複雑な立場に置かれることになった二三子さんだが、馬の絵や湯飲み、灰皿などはずっと大切にしていたという。
若者をもてなしたもつ煮の味は今も、乗馬クラブに引き継がれている。自身も、息を引き取る数日前まで、すしや肉をたらふく食べる気力があった。
「パートナーの前に口紅を塗らない顔で出るなんて!」「電気代がもったいないから、もう勉強はやめなさい」などと型破りな言動で娘たちを驚かせたが、要所では格言も残した。
「幸せかどうかは自分が決めること」「嫌なことを言われても、へそに力を入れてにっこり笑え」。「言われたことが実際役に立っている」と千香子さん。世を渡る心意気は、受け継がれている。(宮坂奈津)
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もう師走。今年亡くなった千葉ゆかりの人たちの人生と足跡をたどり、偲(しの)ぶ時としたい。
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