1995年12月22日。当時25歳の藤井猛は、第54期将棋名人戦・B級2組順位戦で井上慶太と対戦した。
舞台は大阪市の関西将棋会館。6連勝中で昇級を視野に入れる井上に対し、このクラス初参加の藤井は3勝3敗。「可もなく不可もなく」の成績で臨んだ一戦は、結果的に後々まで広く知られることになる。四間飛車の新戦法「藤井システム」の1号局となったからだ。
将棋の長い歴史の中で多くの棋士が様々な戦術を生み出してきたが、藤井システムは特に革新的なものとして名高い。「戦いの前に、玉将の守りを固める」という従来のセオリーに背を向け、初形から玉を全く動かさないまま攻める、斬新な戦法だったからだ。型破りの作戦に井上はうまく対応できず、対局は47手の短手数で藤井の快勝に終わった。
新戦法誕生の陰には藤井自身の苦悩があった。デビュー前から振り飛車を得意としてきたが、玉をがっちり固める居飛車穴熊で対抗されると苦しいと感じるようになっていたのだ。「いかに居飛車穴熊に組ませないようにするか」が、この頃の藤井にとって最大のテーマだった。
「当時は『振り飛車をやめようかな』とも考えていた。それぐらい行き詰まっていたんです。でも、藤井システムを試しに使ってみたら勝てて、道が開けた感じがした。これならまだやれる――。そう思いましたね」
ただ、その後の藤井が常に藤井システムを採用することにはならなかった。
「元々、『ここイチ』(ここ一番)の時のために考えたものだったんです。例えば、『勝てば昇級』という一番の相手が井上さんだったとしましょう。そうすると、相手は必ず居飛車穴熊をやってくる。そういう状況での切り札が欲しかった。切り札だから、しょっちゅう使わなくて良かったんです」
学究肌で知られる藤井だが、こう語る時の表情は数々の修羅場をくぐり抜けてきた勝負師のそれだった。
いまや代名詞とも言える「藤井システム」が生まれたのは27年前の12月、舞台は順位戦でした。昇級と降級を積み重ね、きょうも藤井猛九段(52)は、順位戦の夜を迎えています。
藤井は91年4月、20歳で…
- 【視点】
順位戦は自分だけでなく、競争相手がどのような成績を残すかで昇級や降級が決まります。今回の取材で藤井猛九段が20代の頃のキーパーソンに挙げていた1人が、同じ1970年生まれの先崎学九段でした。 3期目の順位戦、当時四段の藤井九段は1敗のまま
- 【視点】
藤井猛九段が棋士養成機関「奨励会」に入ったのは高校1年の時でした。棋士を目指すにはかなり遅いスタートでしたが、わずか5年でプロ入りを果たします。なぜ、短期間で卒業できたのか。その理由を藤井九段は「ここ一番で勝ってきたから」と話していました。