「関東屈指の山城」唐沢山城跡 鏡石堂々、往時の繁栄示す

根岸敦生
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 栃木県佐野市には「関東屈指の山城」がある。国指定史跡となった唐沢山城跡を歩くと、往時の繁栄がしのばれる。

 「関東屈指」と評するのは、城郭考古学の泰斗である奈良大学の千田嘉博教授だ。著書「城郭考古学の冒険」(幻冬舎新書)で言及している。

 唐沢山城跡は標高241メートルの唐沢山全体に広がり、史跡の範囲は約194ヘクタール。佐野市は今年7月1日に観測史上、県内で最も暑い39・9度を記録したが、頂上にある唐沢山神社の佐野由希子禰宜(ねぎ)は「平地と数度は違う」と言う。富士山東京スカイツリー、新宿、池袋の高層ビル群も肉眼で見え、関東平野を一望できる。

 承平天慶の乱(935~940年)で平将門を追討した藤原秀郷の子孫が、この地域に勢力を広げたと伝わる。城が築かれ始めたのは室町期。佐野市の発掘調査で山の南側や西側に館跡があり、堀や土塁、土橋や堀切などの遺構が残っていることも分かっている。

 神社の境内には高さ約8メートルの高石垣がある。織豊期(織田信長豊臣秀吉の時代)に入り、最後の城主だった佐野信吉が、上方から職人を招いて築造したと推定される。

 昨年、本丸石垣の解体修復工事があった。織豊期の石垣の特徴である、大きな石を据えて権威と威圧感を見せつける「鏡石」の構造などが解明された。石垣の上の土塁からは長屋のような多聞櫓(たもんやぐら)と見られる遺構の礎石や階段も見つかった。

 佐野信吉は1602年に現在の佐野駅北側の春日岡に城を移した。地元には「山上から江戸での火事を遠望し、駆け付けたことをとがめられた」という伝承が残っている。山頂から江戸の様子が丸見えになっていることを、幕府が疎んじたのだろうか。

 だが、城を長く研究してきた出居博さん(佐野市民文化振興事業団事務局長)はこう話す。「戦国乱世が終わり、唐沢山城の機能的役割が終わり、城下町が作れる場所に移したのが実際の理由ではないか」。新しい城は、茶の湯の天明釜で知られた鋳物師が住み、商家や宿がある例幣使街道の天明宿に近かった。

 1614年、豊臣家に近いとみられた佐野信吉は改易となり、所領は没収された。その後、1633年に彦根藩井伊家の飛び地になった。唐沢山には番所が設けられて立ち入りが禁じられ、薪や木材を江戸に供給する場所となった。人の手が入ることはなく、城跡が往時のままに保存されることにつながった。

 明治期になり、地元の旧家臣が中心となって藤原秀郷を祭神とする神社の設立運動が始まる。日本赤十字社の創設者、佐野常民の支援を受けて1883年に唐沢山神社が創建された。神社が鎮座したことで、古城の雰囲気が守られた。

 藤原秀郷が祭神ということで、戦前には出征兵士の親族や職場の同僚が兵士の無事を願掛けした。その木札も残る。1933年刊行の旅行ガイド「神まうで」(鉄道省編)には「武運長久」の霊験があげられている。

 今は勝ち運や運気上昇のパワースポットとして「勝守」が人気を集めている。天明鋳物の風鈴が並ぶ夏の風鈴参道や、ツツジ、モミジの名所でもある。北関東道の佐野田沼ICに近く、車で山城の中心部まで行ける便利さも魅力だ。

 自然のなか、歴史を感じられる山、である。根岸敦生

     ◇

 藤原秀郷 藤原鎌足から数えて7代後の子孫。平安中期の武人。下野(栃木県)の土豪として勢力を広げ、平将門を討伐したほか、近江(滋賀県)の三上山で大ムカデを退治した伝説で知られる。子孫は小山氏や足利氏などに分かれ、足利氏の分家として佐野氏が登場した。「佐藤」姓は、藤原秀郷の子孫であることを表すため「佐野の藤原氏」から1文字ずつをとったことに由来するという説があり、佐野市は「佐藤の会」で町おこしをめざしている。

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