「しょうくんと私、どっちが死んだらよかった?」
小学生だった娘からふいに尋ねられた。高井千珠(ちづ)さん(61)は言葉につまり、そしてやっと、こう答えた。
「どっちも生きててほしかったよ」
結婚して7年後に授かった待望の子どもが双子だった。将と優。育児は大変だったけれど、毎日2人の小さな成長を見つけては夫と喜んだ。
双子が1歳半だった1995年1月。当時住んでいた山口県から、兵庫県西宮市の実家へ帰省した。2人を連れてたくさんの人に会い、夫だけ仕事の都合で一足先に帰った翌17日の早朝、床がぐるぐる回るような感覚で目がさめた。
地震。そう気づくまでに間があった。
「うー」という声が聞こえ手を伸ばしたが、触れたのは将君にのしかかったタンスだった。
近所の人の力を借り、やっと助け出した将君は脈がなかった。急いで運んだ病院は停電していて、ベッドもソファもけが人でいっぱい。冷たい床にタオルをしいて息子を寝かせ、必死で心臓マッサージをした。
泣き叫びながら家族に同じことをしている人がまわりに何人もいた。しばらくして、医師に言われた言葉は忘れられない。
「あなたの子はこれ以上やっても助からない。まだ助けられる人のために、場所をあけてください」
小さな右手の甲に、ペンで「8:50」と死亡確認時刻が書き込まれた。
「将君はお空に」 一日中パソコンに向かう母
将君を一人で天国に行かせてしまった。ママをさがして泣いているのでは――。そう感じていた。阪神・淡路大震災の後、ひとりぼっちの将君のところに行こうと、自殺の方法について書かれた本を読んだこともある。
でも、死ねなかった。娘の優さんがいたからだ。泣いていると時々、まだ幼い娘が、こう言って頭をなでてくれた。「しょうくんがそばにいるから大丈夫だよ」
正直なところ、何年かは娘の成長さえ喜べなかった。幼稚園の入園式でも「ここに将君もいたのに」と思い、涙が出た。
震災から5年ほどたったころ、普及し始めていたインターネットの世界にのめり込んだ。子を亡くした親同士がオンラインで交流できる場があった。そこでは「お空」という世界に将君が生きていて、みんなが「将君のママ」と呼んでくれた。
一日中パソコンに向かう姿に、小学生になっていた娘は何かを感じていたのだろう。ある日の風呂上がり、唐突にこう聞かれた。
「しょうくんとゆうちゃん、どっちが死んだらよかった?」
母から返ってきた思いがけない言葉
母は過保護になった――。優さん(29)がそう思うようになったのは、その後からだ。
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