《1990年代にカンボジアと旧ユーゴスラビアで、国連が経験したことのなかった大規模で挑戦的な平和維持活動(PKO)を、事務総長特別代表として立て続けに率いた》
93年5月23日、私はカンボジアにとって初めての民主選挙を現地で見守りました。ポル・ポト派による攻撃の恐れがあるのに、女性たちは晴れ着姿で投票所に来てくれ、お祭りのようでした。人生最高の日はいつかと問われたら、私はこの日を選びます。
世界の紛争地は、皮肉なことに風光明媚(めいび)なところが多いんです。旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナが、そうでした。私の故郷と似て、山や盆地が連なっています。ひと山越えると言語も文化も異なる土地で、三つの民族が血で血を洗う戦いや凄惨(せいさん)な戦争犯罪を繰り返しました。
元国連事務次長の明石康さん(92)が半生を振り返る連載「紛争と平和の間で」の全4回の初回です。
戦時下で少年時代を過ごした私は、軍国主義を鼓吹していた大人たちが戦後、口をぬぐって米国のすばらしさを語る姿をやや冷めた目で見つめ、民主主義の源流をたどりたくて米国に留学しました。そこで偶然、56年の重光葵(まもる)外相の国連加盟演説を本会議場の傍聴席から見届けました。
《翌57年2月、日本人初の国連職員(政務担当官)に。国際公務員としての道を歩み始める》
国連には限界があります。限界はありますが、数々の紛争を解決したことも事実です。米国におかしな大統領があらわれ、ロシアはウクライナに侵攻した。国際秩序が崩れてしまうかも知れない。だからこそ、国連の真価が問われていると思うのです。
北秋田、動物に囲まれた母の実家
《1931年、秋田県北部の扇田町(現大館市)で生まれた》
当時の人口は5千人ほど。農林業の物資集積地で、周囲の山々から切り出された秋田杉が、駅から運び出されていく光景を覚えています。
北秋田の冬は雪が深く、吹雪になると、見渡す限りの世界が白一色に染まりました。ただ、あのころの秋田県は数少ない石油の産地でしたし、秋田杉のほか、金山や銀山、銅山もあって、わりと恵まれた地域でした。
父親の守之助は精米業を営んでいました。町の周辺の農家から、自宅に接した精米所にもみが持ち込まれ、それが精米されて、また出ていく。父親はお酒が好きで、正月になると、農民たちにお酒をなみなみと振る舞っていました。精米所にはいつも何百俵という米が積まれ、かくれんぼうには絶好の場でしたね。
守之助の実家は町の旧家で…