明治期の巨大精密ジオラマ「木曽谷模型」 波乱の運命の末、文化財に

有料記事

安田琢典
[PR]

 林業の町として長く栄えてきた長野県木曽町中心部に、往時をしのぶ瀟洒(しょうしゃ)な洋館が残る。木曽の山林の大半は、かつて皇室の御料林だった。洋館は御料林を管理する拠点としての役割を果たし、いまは林業遺産や日本遺産の構成文化財に認定されている。この洋館に、実は19日に町有形文化財に指定された貴重なジオラマが受け継がれている。

 ジオラマの名は「木曽谷模型」。旧帝室林野局木曽支局庁舎として利用され、いまは「御料館」と名を変えて資料の展示や多目的実習施設として活用される洋館で公開されている。

 町教育委員会生涯学習課によると木曽谷模型は、1881(明治14)年に東京の上野で開催された「第2回内国勧業博覧会」に出品するため、当時の内務省山林局木曽出張所などが地元住民に発注。尾張藩などがつくった地図を基に博覧会の前年に制作された巨大なジオラマだ。

 地場産の木曽ヒノキを使ってつくられたジオラマの面積は、約5畳分に相当する8・7平方メートル。現在の松本市の一部から岐阜県中津川市の一部まで、戦前の「西筑摩郡」の地形や街並みを再現したもので、縮尺は水平方向が1万5千分の1、垂直方向が5千分の1。そびえ立つ御嶽山や木曽駒ケ岳の間を縫って木曽川が流れており、中山道の宿場の名前を記した標識もついている。

 その後たどった運命は波乱に富んだものだった。制作された当時、39個のパーツを組み合わせたものだったジオラマは、博覧会終了後に解体され、山林局の本局に移転。さらに1891(明治24)年には再び解体され、三重県伊勢市に建てられた神宮徴古館農業館に移設された。その後、徴古館の一時閉館を受け、ジオラマは1990年に木曽町に戻ってくる。町内でも設置場所が転々とした結果、2014年から現在の御料館で展示されている。

 引っ越しの回数は記録に残っ…

この記事は有料記事です。残り402文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
今すぐ登録(春トクキャンペーン中)ログインする

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

春トク_2カ月間無料