ボールに座った園児から学んだ指導法 神様に認められた鬼木達の原点

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岩佐友
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 華々しい幕開けを、鬼木達(とおる)はスタンドから見つめていた。

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 1993年5月16日、カシマスタジアム。前日に国立競技場で行われたヴェルディ川崎と横浜マリノスによるJリーグのオープニングマッチに続き、鹿島アントラーズの開幕戦が行われた。

 試合はスターの独壇場。元ブラジル代表ジーコがハットトリックを達成した。

 「衝撃でしたよ、衝撃。目に焼き付いています」

 この年、千葉・市立船橋高から鹿島に入団した19歳のルーキーにとって、「神様」と呼ばれた40歳は、仰ぎ見る存在だった。

 紅白戦で対面すると、「すべてを見透かされている感覚」になった。奪えると思って足を出すと、逆を突くパスやドリブルで簡単にかわされた。

 ピッチ外でもプロとしてのあり方を問われた。おしゃれしようと穴の開いたジーンズをはくことも、コンビニの袋を持つことも、「プロなんだからダメだ」。冗談交じりだったが、見られる立場としての自覚をうながされたように感じた。

 最初の2年はリーグ戦で出番がなかった。98年、当時JFLだった川崎フロンターレに期限付き移籍した。

 鹿島とは環境面で大きな差があった。クラブハウスはプレハブ。トレーニングルームの設備はほとんど整っていなかった。

 練習では球際の競り合いで甘さを感じた。「鹿島ですりこまれたベースを落とさず、それを川崎でも示そうと考えた」

 いったん鹿島に復帰した後の2000年、J1に昇格したばかりの川崎へ完全移籍。1年でJ2に降格したが、その後も豊富な運動量と闘志あふれるプレーで中盤の要として活躍した。キャプテンを任され、「川崎の宝」と呼ばれた。J1に再昇格した翌年の06年、けがの影響もあり、32歳で現役を引退した。J1での出場は49試合だった。

 指導者としてのキャリアは、幼稚園児や小学生などを対象とした川崎のスクールコーチから始まった。

 「自分はプロ上がり。簡単に…

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    中川文如
    (朝日新聞スポーツ部次長)
    2023年2月28日7時40分 投稿
    【視点】

    「楽しむ」と「勝つ」を両立させるんだという鬼木監督の信念。リズミカルにボールがつながる川崎フロンターレのパスワークが、Jリーグで異次元に見える理由がわかった気がします。 そのパスワークについて、鬼木監督から理想の一端を教えていただいたこと

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