被葬者は「盾」が大好き? 埴輪や絵も出土 富雄丸山古墳
前例のない「盾形銅鏡」が出土し、世間を驚かせた奈良市丸山1丁目の富雄丸山古墳(4世紀後半)。実は鏡の他にも、盾をかたどった形象埴輪(はにわ)や、盾の絵が線刻された円筒埴輪など、何かと「盾」へのこだわりを感じさせる出土品が多い。2カ所の埋葬施設に眠る被葬者は、どのような人物だったのか。
富雄丸山古墳は直径約109メートルの円墳で、頂上部分と、北東に突き出た「造り出し(突出部)」の計2カ所に、円筒形の木棺を粘土で覆った「粘土槨(ねんどかく)」と呼ばれる埋葬施設がある。昨年秋からの発掘調査では、造り出しの粘土槨で全長237センチの蛇行した形の鉄剣と、全長64センチ、幅31センチの盾形の銅鏡が見つかった。
2年前の調査で出土した盾形埴輪は、造り出し東側のくびれた部分の外に置かれていた。高さは125センチ前後で、四角い「方形」の盾を表現。全体が文様で覆われ、上端に近い部分は鋸歯文(きょしもん、ギザギザ模様)で飾られていた。盾形埴輪は頂上の粘土槨の周辺にも立っていたようで、破片が多数見つかった。
盾の線刻画がある円筒埴輪は、盾形埴輪の出土位置とは古墳の反対側になる、西側最下段の埴輪列で出土。復元高1メートルほどの埴輪の下端近くに、縦約6センチ、横約4・5センチの大きさで、最外郭を鋸歯文で飾った方形の盾が描かれていた。
作り出しの粘土槨で見つかった盾形銅鏡は、頂上が高く盛り上がった「山形」の盾を模しており、盾形埴輪や線刻画の方形の盾とは形が異なる。一方で、文様に鋸歯文が使われている点は一致している。
古墳時代の武器を研究している鹿児島大学の橋本達也教授によると、これらのモデルになった盾は、山形のものは革製、方形のものは木製だった可能性が高いという。全面を鋸歯文で飾った山形の革盾は、4世紀後半ごろの古墳に副葬されたものが最古とされてきた。「富雄丸山古墳の築造年代はそれらの古墳よりも若干古く、革盾の出現は今まで想定していたより早まりそう。その最新型の革盾を、鏡という古くからの権威の象徴と合体させた点が興味深い」と話す。
橋本教授が注目するのは、盾が持つ霊的な力だ。「鋸歯文などの文様は、武器としての盾の機能には関係ない。こうした模様を持つ革盾は、実用品ではなく邪悪なものを寄せ付けない力を持つ祭器で、だからこそ鏡と融合したのでは」
古墳時代の盾といえば、天理市の石上神宮には2枚の巨大な鉄盾(5世紀後半)が伝わっている。奈良県立橿原考古学研究所の小栗明彦企画係長は、富雄丸山古墳のすぐ北を通って大阪平野と奈良盆地を結ぶ「暗越(くらがりごえ)奈良街道」(現在の国道308号)は、4世紀後半にヤマト王権によって開発され、その事業には石上神宮をまつった勢力が、富雄丸山古墳の被葬者と共に関わったとみている。
「石上神宮に隣接する天理市・布留(ふる)遺跡で出土した朝鮮半島系の珍しいタイプの土器が、この街道に近い生駒市の遺跡でも出土している。富雄丸山古墳の調査が進めば、石上神宮や暗越奈良街道との間に、さらにつながりが見えてくるかもしれない」と小栗さんは期待する。(今井邦彦)
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