プロ野球選手めざした元Jリーガー WBC優勝メンバーとの誓い

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聞き手・辻隆徳
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 「子どもの頃の自分はプロ野球選手になるとずっと思っていました」

 サッカーJ3松本山雅などでプレーし、昨季限りで現役を引退した元日本代表DFの田中隼磨さん(40)=松本山雅FCエグゼクティブアドバイザー=の小学生時代の夢はプロ野球選手になることだった。野球を経験したからこそサッカーに生かされたこと、日の丸を背負った球界を代表する同学年選手との交流――。ワールド・ベースボール・クラシックWBC)の開幕が来月に控える中、今も変わらない野球愛を語ってくれた。

     ◇

 ――野球チームに入ったのはいつからですか。

 「小学4年生からです。元々、父が野球経験者だったこともあり、僕を野球選手にさせたかったみたいで。でも、小学1~3年生まではサッカーチームに入っていました。最初に足腰を鍛えさせたいという考えがあったそうです」

 「ほかにも僕がやりたいと言ったスポーツはやらせてくれました。スキー、スノーボード、スケート、バスケ、陸上、バレー……。小さい頃から負けず嫌いな性格だったので、何をやっても一番をめざしたいという思いでやっていました」

 ――小学生の頃の田中さんのポジションは。

 「最初から投手です。4年生のときは6年生相手に投げることもありました。速さだけでは抑えられないので、コースを変えたり、直球の緩急を使ったり、打者の癖を見たり。それで抑えられるのがとにかくおもしろかった。相手との駆け引きという意味では、その後のサッカーに生かされた部分でもあります」

 たなか・はゆま 1982年、長野県松本市出身。2001年に横浜F・マリノスへ入団。東京ヴェルディ1969や名古屋グランパスを経て、14年に地元の松本山雅FCへ。22年シーズンを最後に現役を引退した。右サイドを主戦場にJ1通算420試合出場15得点。06年には日本代表でもプレーした。

 ――ただ、6年生で肩を痛めて野球を続けることができなくなりました。

 「1日で3試合投げることがあって、右肩に違和感を感じたんです。それまではなんともなかったのに、急にでしたね。でも、しばらくは痛みを我慢して練習に行っていた。それで逆に悪化してしまって……。父に対しては本当に申し訳ない気持ちでした。同時に、自分自身の夢が絶たれたという思いが強かった。すごくショックで、毎日泣いていたのは覚えていますね」

 ――切り替えることは難しかったですか。

 「今までチームメートだった友達と学校で顔を合わせるのはつらかったです。学校が終わると、みんなは野球の練習に行くじゃないですか。いつも輪の中にいた自分がいないのはさみしいし、悲しかったですね」

 「でも、1カ月後くらいには…

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    中川文如
    (朝日新聞スポーツ部次長)
    2023年3月5日17時0分 投稿
    【視点】

    小6で肩を痛めて野球を続けられなくなった田中隼磨さん。その1カ月後には気持ちをサッカーに向けることができました。ご本人のメンタルの強さはもちろんですが、お父さんの教育方針が本当に素晴らしかったのだと思います。 自身、野球経験者だったと

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