大統領を逮捕した警察官、150年後の今に響く言葉 NYTコラム
ニコラス・クリストフ
1872年、ユリシーズ・S・グラント大統領(当時)は、首都ワシントンで馬車に乗っていたところ、スピードの出し過ぎで警察官に逮捕された。警察官は手を突き出して停止の合図をし、グラントはそれに従った。それから、警察官と一緒に警察署に行った。
それは大統領の地位をおとしめるものだったのだろうか。
違う。私はそれを、民主主義の美しい証しだとみなす。「L’e´tat, c’est moi」(朕(ちん)は国家なり)と言ったフランスの太陽王、ルイ14世には考えられなかったことだが、法の下の平等という制度のもとでは適切なことなのだ。
ニューヨーク・タイムズ紙によると、大陪審はドナルド・トランプ前米大統領がポルノ女優に口止め料を支払ったとして起訴することを決めたが、いまのところ、起訴状の中身は明らかになっていない。この特異な起訴については妥当な疑問があり、訴追の詳細はわからないものの、知識や経験に基づいて推測してみると、以下のようなことが問いとして浮かぶ。
大統領経験者の初めての起訴は、裁判官や陪審員によって棄却されうる奇抜な法理論に基づくべきなのか。トランプ氏への同情心がまったくない人たちの間ですら、この事件に対して疑念を持っていることを我々はどう考えればいいのか。(捜査を指揮した)アルビン・ブラッグ地区検察官は自分が何をしているのか、理解しているのだろうか。
これらの問いに対する答えがどのようなものか、裁判で提出される証拠を見るまでは、我々の誰も確かなことは言えない。また、起訴が失敗に終わったときに、トランプ氏を強靱(きょうじん)にするのではないかと私は心配している。一方で私がもう一つ、それよりももっと心配なのは、容疑者が大統領経験者であるからといって、検察官たちが目を背けるようなことがあれば、刑事免責というメッセージを送ることになってしまうのではないか、ということだ。
トランプ氏のフィクサーだっ…